中心と周縁(2)― 未開で野蛮な社会への退行 | 内的自己対話-川の畔のささめごと

内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

 
(写真はその上でクリックすると拡大されます)

 

「中心と周縁」というテーマについて考えをまとめるための、私にとっての第二の手掛かりは、「自民族中心主義」(ethnocentrisme)という概念の規定の中に見出される。

この概念について考えるきっかけを与えてくれたのが、Christian Delacampagne, Une histoire du racisme, La Livre de Poche, 2000 である。著者は、現在はどうか知らないが、同書出版時には、アメリカのジョン・ホプキンス大学の教授であった。哲学が専門であり、二十世紀哲学史も書いているが、現代の諸問題の歴史的起源の哲学的分析に特に長けている。

同書の序論で、著者は、人種差別を自民族中心主義と外国人嫌いとからはっきり区別する必要を訴えている。

自民族中心主義とは、著者によれば、あるグループの成員たちにとって、自分たちのグループがすべてのグループの中で最も優れていると信ずる態度である。言い換えれば、自民族(あるいは自国民)が世界の中心であると信ずる態度である。この態度は、いわゆる「未開」社会(sociétés « sauvages »)に広く観察される態度であり、例えば、アメリカ・インデアンの多くは、自分たちのことを「卓越せるもの」(« les excellents »)、あるいは端的に「人間」(« les hommes »)と呼ぶ。それは、あたかもそれらアメリカ・インデアンの部族のそれぞれが、自分たちだけで、「人類」(« l’humanité »)を体現していると信じているかのようである。

この自分たち以外を「未開」あるいは「野蛮」と見なす態度である自民族中心主義こそ、典型的に「野蛮な」(« sauvage »)態度だと喝破したのがレヴィ=ストロースである。そうレヴィ=ストロースが言っているのは、もともとは1952年にユネスコで行った講演の中でのことであり、後に Race et histoire というタイトルで出版されている(現在も、Gallimard  « Folio essais » の一冊として簡単に入手できる。1971年に同じくユネスコで行った講演「人種と文化」と併せて、Albin Michel から、Race et Histoire Race et Culture というタイトルで2002年に出版されてもいる『人種と歴史』の邦訳は、みすず書房から刊行されている)。その講演の第三節は、まさに « L’ethnocentrisme» と題されている(邦訳では、「民族中心主義」となっている。手元になく、本文の訳は未見)。

 

Il suffira de remarquer ici qu’il recèle un paradoxe assez significatif. Cette attitude de pensée, au nom de laquelle on rejette les « sauvages » (ou tous ceux qu’on choisit de considérer comme tels) hors de l’humanité, est justement l’attitude la plus marquante et la plus distinctive de ces sauvages mêmes. (« Folio essais », p. 20 ; Albin Michel, p. 44-45)

 

しかし、このような態度は、いわゆる「未開民族」だけに見られた過去のものであり、今日の文明社会には見られない心性であろうか。Une histoire du racisme の著者は、そうではない、と言う。

 

En même temps, l’ethnocentrisme est parfaitement universel, dans la mesure où un sauvage continue de dormir dans le cœur de l’homme civilisé, et où chacun de nous est persuadé que sa propre « tribu » (quoi qu’on entende par là) est la seule qui vaille. (Ch. Delacampagne, op. cit., p. 13)

 

同じ序文の中で、著者は、この誰の心にもつねに潜んでいる自民族中心主義的心性、つまり〈未開なもの・野蛮なもの〉そのものを告発しようとしているのではない。そのような心性は、どこにでも、いつでもあるという意味で、人類にとって普遍的でさえある。著者が弾劾しているのは、そのような本来的に野蛮な態度である自民族中心主義がもたらす他者への憎悪に何らかの「科学的」根拠を与え、それを「真理」として正当化しようとする近代以降の疑似科学的人種差別である。

このような観点からすると、現代の世界は、まことに皮肉なことに、その達成した科学的進歩によって、まったくそれと気づかずに、未開で野蛮な社会へと逆戻りしようとしているかのようにも見える。もし私たちがそのような疑似科学的に根拠づけられた差別的優位性とそこから発生する他者への憎悪にしか己の存在理由を見出せなくなっているとしたら、それは私たちがまだニヒリズムを徹底的に生き抜いてはいないからなのかもしれない。