「大工の子が神である」― パスカルと西田(8) | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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Je vois ces effroyables espaces de l’univers qui m’enferment, et je me trouve attaché à un coin de cette vaste étendue, sans que je sache pourquoi je suis plutôt placé en ce lieu qu’en autre, ni pourquoi ce peu de temps qui m’est donné à vivre m’est assigné à ce point plutôt qu’à un autre de toute l’éternité qui m’a précédé et de toute celle qui me suit. Je ne vois que des infinités de toutes parts, qui m’enferment comme un atome et comme une ombre qui ne dure qu’un instant sans retour. (Pensées, Laf. 427 ; Br. 194)

 

私は、私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの広大な広がりのなかの一隅につながれているのを見るが、なぜほかのところでなく、このところに置かれているか、また私が生きるべく与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠のすべてと私よりも後にくる永遠のすべてのなかのほかの点でなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない。私はあらゆる方面に無限しか見ない。それらの無限は、私を一つの原子か、一瞬たてば再び帰ることのない影のように閉じこめているのである。(前田陽一訳)

 

パスカルは無信仰な自由思想家にこう言わせているが、西田がパスカルの「無限の球」に言及しながら、しかし、自己の哲学の立場からそのメタファーに変更を加えているところに、上の断章の一節に示された無限に対する恐怖とはまったく異なった世界像が提示されている。

 

絶対矛盾的自己同一の世界はパスカルの云ふ如き周辺なき無限の球にも比すべきものではあるが、それは唯到る所が中心となる云ふのでなく、一定の中心を有つて居る、否一定の方向を有つて居るのである。而して作られたものから作るものへと動いて行く(絶対現在の自己限定として)。(「実践哲学序論」『西田幾多郎全集』第九巻、137頁)

 

無限の空間において、いたるところが中心であり、しかもその周辺はない球が意味するのは、その無限空間の任意の点が中心になりうるが、その中心をある一つの中心として限定する周辺がないのであるから、いかなる点も他の諸点に対して区別されうる中心ではありえないということである。今ここに在ることに何らの理由も見いだせないことは、「無限の球」のメタファーが含まれた断章と同じような宇宙像を示している箇所としてしばしば引かれる上の断章の一節に見られるような恐怖を引き起こす。

ところが、西田は、絶対矛盾的自己同一の世界について、パスカルの「周辺なき無限の球」に比すべきものと言っておきながら、それは一定の中心を有っていると主張する。ここでは、もちろんのこと、西田のパスカル解釈の当否が問題なのではない。それは論ずるに値しない。問題は、なぜ、西田は、絶対矛盾的自己同一の世界、つまり歴史的生命の世界は、一定の中心、さらには一定の方向を有っていると主張するのか、ということである。

「実践哲学序論」で、西田が頻繁に言及し援用しているのは、キルケゴールである。上の引用箇所の直後でも、『キリスト教の修練』を援用している。人はなぜキリスト教における神と人との関係に躓くのかという問題が同書で論じられている箇所に言及しつつ、その問題に対して、西田は、己の哲学的言語空間の中にそれを引き込んだ上で以下のように答える。

 

然るにキリスト教の信仰では我側にある大工ヨセフの子、ヤコブの兄弟である此個人が神人であると云ふのである。それには同時存在の局面が属して居るのである。これ程パラドックス的なことはない。故に人は此信仰に躓く。神人は矛盾の符合であると云ふ。併し我側に居る大工の子が神である、このパラドックスが私は我々の行為の根本的原理であると思ふのである。絶対矛盾的自己同一の個物的多として、我々の自己と絶対との関係は、大工の子が神であると云ふことでなければならない。個人が自己矛盾的に神であると云ふことである。(同頁)

 

世界におけるそれぞれの瞬間と場所とが、「一瞬たてば再び帰ることのない影」などではなく、かけがえのないことがらの到来する時と場所として、真理の〈始まり〉でありうること、そのことは、永遠の真理の現実世界への反映の一つとしてではなく、類的一般者の単なる一例にすぎないのでもなく、端的にその時その場所でそう望まれたがゆえに、その時その場所で真理の時が始まるからであること、そうでなければ、「この人」において、他の何ものにも拠らない意志が発動することはなく、したがって真の行為が成立することもないこと、これらのことを西田はここで主張しているのである。

この意味で、世界は一定の中心を有ち、一定の方向に向かって展開する。作られたもののうちに作るものが生まれ、世界が世界自身をある一点からある方向へと変えていく。