昨日の記事で引用した『パンセ』の断章について Le Guern が Les
pensées de Pascal, de l’anthropologie à la théologie の中で懇切丁寧に注解している節 « Transition de la connaissance de l’homme à Dieu » の中のある一段落を読んだことが、パスカルと西田を対比させてみようという今回の私の試みのきっかけになっている。
断章199からの引用箇所がモンテーニュの『エセー』第二巻第十二章におそらくは依拠しているであろうと、『エセー』の当該箇所を引用した後、ルゲルンは次のように述べている。
Mais les images cinétiques de Montaigne
traduisent un certain plaisir que prend l’auteur des Essais en constatant le caractère universel du mouvement. Chez
Pascal au contraire, cette fuite perpétuelle de l’objet que l’homme s’assigne
dans sa recherche correspond à une angoisse et à une véritable impression de
vertige. L’homme recherche la stabilité mais il ne la trouve pas (Le Guern, op. cit., p. 162-163).
モンテーニュ以上にと言うべきだろうが、西田は運動の永遠性を象徴するものを眺めることに喜びを感じている。それに対して、パスカルにおいては、安定を追い求めても決してそれを見いだせない人間の「永遠の遁走」状態は、苦悩と眩暈を人間のうちに引き起こさずにはおかないものである。
1931年に『哲学研究』に発表され、1932年に『無の自覚的限定』に収録された論文「永遠の今の自己限定」の中で、西田は、パスカルの「無限の球体」の箇所を仏語原文で引用している。その前後を含めて読んでみよう。
真に無にして自己自身を限定するものといふのは、自由なる人といふべきものであらう。絶対の無によって限定するものは、自己の中に無限の弁証法的運動を包む円の如きものと考へることができる。自由なる人といふのは自己自身の中に時を包む円環的限定といふことができる。パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球 une sphère infinie dont le centre est partout, la circonférence nulle
part に喩へて居るが、絶対無の自覚的限定といふのは周辺なくして到る所が中心となる無限大の円と考へることができる(パスカルの如く球と考へるのが適当かも知れないが私は今簡単に円と考へて置く)。(『西田幾多郎全集』第五巻、2002年、148頁)
例によって、西田哲学に相当に慣れ親しんだ人でなければ、一読しただけでは何を言っているのかわかりづらい文章であるし、前後の文脈を考慮しなければなおのこと難解である。「無限大の球」のメタファーを神のそれとしているという誤読もあるが、それはここでは問わない。それでもなお、いくつかの論点を指摘することはできるだろう。
まず、「自由なる人」そのものが円の中心と考えられていること、次に、その自由人が無限の弁証法的運動を自己の中に「包む」ものとされていること、そして、球が円に置き換えられていることである。
ところが、パスカルにおける無限大の球のいたるところにある中心の任意の一つは、実は、中心(le centre)ではあり得ない。せいぜい、無数にある中心の一つに過ぎず、己以外の他の中心に対して、何らの優位性を持ち得ない。そのような中心は、包むものではありえず、ただ無限のうちに包まれ、無限のうちに定位なく「閉じ込められている」ものに過ぎない。パスカルにおいては、球のメタファーを円のそれに置き換えることはできない。
西田においては、無数にあるそれぞれの中心が時の始まりでありうる。それゆえ、その一つ一つの中心から時が生まれる。「時は永遠の今の自己限定として成立する」と上の引用箇所の数行後で述べている。
では、中心が「包む」とはどういうことか。中心はむしろその周囲によって包まれていると言うべきではないのか。この文脈では出て来ないが、西田は「映す」という動詞を頻用する。中心が「包む」とは、西田において、中心が周辺を「映す」ということである。映すことによって、映されたものを無限に超えていく。この「映し」が意識である。
この意味での意識が西田においてしばしば鏡に喩えられるのは偶然ではない。それは映す「面」なのである。球から円への置き換えは、だから、西田が言っているように単に話を簡単にするためはでない。西田の哲学的言語空間にパスカルのメタファーを導入するための、いわば必然的な手続きなのである。