マルディネ『眼差し・言葉・空間』を読みながら(6)― 哲学的実践そのものとしての「反芻」 | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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直面した問いの鋭さや出遭った出来事の棘が私たちを苦しめ傷つけるということは、若年の頃からありうることだ。しかし、それらの刃の鋭さと痛みをもたらす棘とを、それらがもたらした切断や亀裂とともに、そのまま記述することができるようになるのには、一生かかることもある。

例えば、十六世紀の偉大なるユダヤ教思想家プラハのマハラルがその著作を始めたのは、七十一歳のときであった。

一つの思想が孵化するまでにかかる時間は、その思想が対話しそこから養分を得ていた過去の思想との関係とも密接な関係がある。

過去の思想の言葉を「反芻」することは、古代キリスト教教父たちにとって、一つの日常的な実践であった。この「反芻」という哲学的実践は、特にアウグスティヌスにとって大切な exercice spirituel であったが、近代では、ニーチェもまた、読者に「反芻する」ことを求めた。

この「反芻」は、マルディネにおいてもまた実践されている。その知識は膨大かつ広範であったが、マルディネは、果てしなく拡大する生ける図書館のような存在ではなく、本質的に重要な作品を繰り返し「反芻する」人であった。それらの作品は、すっかり「記憶される」(« connu par cœur » という表現の深い意味において)まで反芻された。そのようにして、マルディネの生涯を通じて、その哲学の養分となった。

このことは、過去の偉大なる哲学者たちとのマルディネの対話の中によく見て取れる。それら哲学者たちが自ら問うた問いがマルディネ自身の心に棲まう。決して教条的・独断的になることはなく、それぞれの哲学者たちの教説を蝶の標本のように分類・配列することもなかった。

マルディネは、哲学することに必要な「用心」(« vigilance »)について語る。それは、偉大な哲学者たちをまさに偉大たらしめている問いを開いたままに保ち、場合によっては、それらの哲学者たちがそれらに与えた答えを超えて、問いを問いのままに保つことである。

1958年に書いた、リヨンの準備学級時代の自分の師であったピエール・ラシェーズ=レイ(Pierre Lachièse-Rey)への謝辞の中で、マルディネはこう問うている。

 

L’histoire de la philosophie serait-elle encore histoire de quoi que ce soit si la philosophie dont elle se veut l’histoire perdait en elle, avec cette vigilance, la dimension même du philosopher ?

 

哲学史がその歴史であろうとする哲学が、哲学することの次元そのものを、この用心とともに、己の中で失ってしまったら、その哲学史は、それでもなお何かの歴史であろうか。