忘却のエチカ、失われた理想を求めて ― 夏休み日記(15) | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

 

何もかもいつまでも記憶していることができれば、それがつねに人間にとって理想的なことなのであろうか。自らが犯した罪を、他者によって犯された罪を、いつまでも忘れないでいることが最も正しい生き方なのであろうか。そのための努力を怠らないことが最も優れた倫理的態度なのであろうか。

戦争の記憶は、人類の罪として、少なくとも人類が滅亡するまでは、人類自身によって想起され続けるべきだろうと私も考える。そして、「フクシマ」もまた...

しかし、私たちの心がすっかり罪の記憶で満たされ、そのことが私たちに「理想」を語ることを忘却させている、そうすることを妨げている、あるいは、せいぜい何か恥ずかしげにこっそりと聞き取れないような声でそうするしかなくなっているとすれば、どうであろうか。

記憶の次世代への継承は、無論、現在の私たちの責務であろう。しかし、過去の罪を忘れず、二度と過ちを繰り返さないと誓い、そのために常に細心の注意を払うだけで、「未来」を切り開くことができるのだろうか。

いつまでも過去にしがみつかず、過ぎ去ったことは「水に流し」、未来に向かって体を伸ばせ、などと、無責任な激励を推奨したいのではない。

過去の「忘却」を現在の自己の権力意志や物質的欲望のために利用する狡猾な悪霊たちは常に世界を跋扈している。悪の商人たちばかりではない。その国を代表する大企業の中に公然と大量殺人兵器を開発・生産・輸出する企業が名を連ねている先進諸国が一つや二つではないことを私たちは知っている。

二十世紀が人類史上最も多くの人間が人間によって殺された世紀になるかどうか、二十一世紀をまだ十五年ほどしか生きていない私たちは予測することさえできない。戦争ばかりが大量に人を殺すわけではないことを私たちはもうよく知っている。

空疎な大言壮語を慎み、偽問題に惑わされずに、真に解決すべき問題を順序立てて一つ一つ黙々と解決していく誠実さと謙虚さが日々の exercice spirituel には必要であろう。

しかし、忘れ去るにはあまりにも重大な罪にもかからわず、その重みにほとんど押し潰されそうになりながら、未来に実現されるべき「理想」を再び見出し、それを次世代に託すべく語り続ける「理想主義的」態度を保持し続けることもまた、同じくらい大切な exercice spirituel であると私は考える。

そのような「理想主義」の再構築に没頭することによって過去を「忘却」することは、かつて確かにあったことをなかったことにする否認主義とは違う。それは、何があってもあくまでも〈善〉を探求し続ける、一つのエチカである。