「神化 déification」(あるいは「神格化」)という主題は、キリスト教全体の歴史を鳥瞰すれば、けっして「異端」ではない。むしろ、その中心的主題の一つだとさえ言うことができる。「神が自らを人の姿になした(Incarnation)のは、人が神となる(Inhabitation)ためである」と言われるときがそうである。この意味で、神の人間化は人間の神化に対応している。
この教説は、教会教父たち、とりわけ、多くの古代ギリシャ教父たち(Benoît Beyer de Ryke の Maître Eckhart, une mystique du détachement (op. cit.) には、オリゲネス、ニュッサのグレゴリオス、偽ディオニュシウス・アレオパギタなど、十三人の名前が挙げられている)によって繰り返し主張され、幾人かのラテン教父たち(アウグスティヌスやレオ一世)によっても、より弱められた表現によってであるとはいえ、支持されている。この意味では、神化(théosis)の教説は、キリスト教神学の伝統の中でいわばお墨付きを得ているわけで、とりわギリシア正教では中心的教義でさえある。
ところが、西洋における中世スコラ神学の伝統の中では、エックハルト以後、「受肉」(Incarnation)による神化が個々の信徒においても現働するという意味での「神化」というテーマは忘却されていく。再びこのテーマが見いだされるためには、十九世紀まで待たなくてはならない。
この点で、エックハルトの諸著作の全体的解釈において、今日でも最も優れた研究の一つに数えられている
Théologie négative et
connaissance de Dieu chez Maître Eckhart ([マイスター・エックハルトにおける否定神学と神の誕生],初版1960, Vrin, 1998) の著者
Vladimir Lossky (1903-1958) が、正教会を代表する大神学者であることは偶然ではないであろう。この著作の中で Lossky が論証しようとしていることは、エックハルトは、汎神論者でなく、「神化」(神格化)という正教会の偉大なる伝統的教説に近い立場を取っていた、ところが、この立場が当時の中世ラテン・キリスト教世界では正統と認証され得なかった、ということである。
この観点からすれば、エックハルトは、正統から逸脱した「危険な」教説を主張したのではなく、まったく「正統的(orthodoxe)」(異端ではなく、正教会の伝統に連なるという二重の意味で)だったのである。
とはいうものの、この「神化」の解釈をめぐっては、今日でも、大きく二つの流れに分かれている。「神化」とは、「神の如くになる」(analogie)ことか、「神と同一になる」(univocité)ことか、という二つの方向性である。
前者の場合、これはエックハルトの神秘主義的教説をトマス・アクィナスの神学の正統的な流れの中に回収しようとする学者たちに多く見られるのだが、「神化」とは、類比(analogie)そして分有(participation)によって統御された、神と人との「垂直的」関係であると考える。
後者の場合、これは今日のボッフム学派の代表的学者である Burkhard Mojsisch が Meiter Eckhart, Analogia, Univozität und Einheit (Hambourg, Felix Meiner, 1983) の中で主張している解釈だが、その解釈によると、神と人との関係は、一義性(univocité)を根拠とした「水平的」関係である。
Mojsisch によれば、この一義性こそ、エックハルト神秘思想の中心的テーマをなす。神的系譜化(filiation divine)において、神と人との間に成立する関係は、同一性である。この「神化」における神と人との同一性のテーゼと、被造世界と造物主としての神との関係においては維持される類比のテーゼとは、エックハルトにおいて矛盾しない、と
Mojsisch は考えるのである。