マイスター・エックハルトに影響を与えた女性神秘家として、アントウェルペン(アンヴェルス)のハデヴィジック(Hadewijch d’Anvers)、マグデブルクのメヒティルド(Mechtilde
de Magdebourg)、そしてマルグリット・ポレート(Marguerite Porète)の三人をこれまで取り上げてきたが、それぞれに割いた記事の分量の差からも想像がつくとは思うが、この三人の中では、マルグリットの影響が一番大きい、と私は考えている。
まさに同時代人であったマルグリットとエックハルトは、その当時のキリスト教社会における立場としては、それぞれに「正統」と「異端」に属しており、その意味では、真っ向から対立していたわけであるが、同じ時代状況を生き、その思想的課題に全身全霊をもって取り組んだという意味では、同じ精神的気圏に生きていたと言うことができる。
エックハルトがマルグリットの生前からその噂を聞き及んでいたかどうかについては確たることは言えないが、遅くとも、マルグリットがパリで火刑に処された一三一〇年の翌年から二年間、エックハルトがパリ大学神学教授として二度目の教鞭を取っている間に、マルグリットの教説について知る機会があったことは、ほぼ確実である。しかも、その間、エックハルトは、サン・ジャック修道院で、まさにマルグリットを異端審問官として断罪したパリのギヨームと何度も会う機会があったのである。おそらく、ギヨームの口から直接、異端審問の経過とマルグリットが火刑台で身を焼かれるまでの状況について詳しく聴く機会があったに違いない。
エックハルトのドイツ語説教の中には、マルグリットの教説と共鳴する主張がいくつも見出されるが、その良き例の一つが有名な「精神の貧しさ」についての説教五二(Beati
pauperes spititu)である。異端審問官たちがマルグリットに対して嫌疑の眼差しを向けたのは、主に、諸徳目の放下、つまり、神格化された魂による諸徳目の「解雇」である。神格化された魂(この確かに誤解を招きやすい表現が言わんとするところは、魂が神にいわば昇格するということではなくて、まったく逆に、〈愛〉なる神ご自身が己のうちで直に働くまでに無化された魂のことである。この点については、これまでの一連の記事でくり返し説明してきた)、つまり、己の意志について貧しさの極みにある魂は、一切の徳目と善行とを放棄しなくてはならない。
こうした外的拘束からの魂の解放を基礎的経験とする神秘主義は、教会当局が信徒たちに課す外的秩序と義務とに対する個人の魂の本質的自由という主張を論理的に含みうる。しかも、このような「危険思想」が、当時の知的特権階層である聖職者・神学者・学者たちにしか読めないラテン語ではなく、一般民衆が直接聴いて理解できる、各地方の現地語で語られたのであるから、当局が警戒したのも無理はない。
十三世紀から十四世紀にかけてヨーロッパ各地に広がった異端運動に直面して、教会当局が採用した方針は、排除か統合かの二者択一であった。統合とは、既存の修道会のいずれかに下部組織として「危険分子たち」を回収することである。自分たちのそれまでの独立した、しかし不安定で解体の危機にも曝されていた共同生活が、教会の権威の下にこのように統合されるとき、ベギン会の女性たちは、自分たちの組織が教会の保護の対象となることと引き換えに、当局の課す規則を受け入れなければならなかった。排除とは、そのような統合を拒否し、どこまでも自由と独立を求める信仰者たちを、異端として排斥することである。このような弾圧的姿勢は、十四世紀初めに盛んであった。とりわけ、当局からはっきりと異端の烙印を押されていた、いわゆる「自由心霊派」たちに対して過酷を極めた。この「自由心霊派」との親近性を疑われたことが、マルグリットおよびベギン会の女性たちが異端の嫌疑を掛けられた主な理由だったのである。
エックハルトがパリでの二度目の神学教授としての任務を終えた後、私たちが再びその姿を見出すのは一三一四年、ストラスブールにおいてである。以後約十年間、エックハルトは、このアルザス地方の中心都市で、現地語である中高ドイツ語で地元の僧俗に説教を続ける。アルザス地方は、元来異端的運動の長い歴史を持つ地方の一つであり、まさにその異端運動への現場での対処がエックハルトに課された大きな使命の一つであった。ストラスブールからケルンに移った後もドイツ語説教は継続される。そのエックハルトに、あろうことか、異端の嫌疑が掛けられる。
当時ライン河流域の教区を管轄していたケルンの大司教ハインリッヒ・フォン・ヴィルネブルグは、一三〇六年から、「不服従な」ベギン会の女性たちとベガルド会の男性たちの多くを、火刑に処すかライン河で溺死させていたが、その同じ大司教が、一三二六年、エックハルトに対する異端審問を開始するのである。