『到来するものを思惟する』(一) | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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Françoise Dastur, Penser ce qui advient. Dialogue avec Philippe Cabestan, Les Dialogues des petits Platons, 2014, 160p.

この本は、八章に分かれていて、最初の章 « À l’école de la phénoménologie » では、ダスチュール先生の生い立ちと、現象学へと自分の哲学探究の方向を定めていくまでの経緯とが語られている。

哲学に限らないことだが、フランスは今でもエリート主義が幅を利かせていて、そのような特権層に自分の家庭が属していないと、それぞれの分野の選ばれたグループの中に入り込むことはきわめて難しい。

ダスチュール先生は一九四二年リヨン生まれで、一九六一年に大学に進学するが、その頃はまさに学問の世界でもエリート主義が大手を振って歩いていた時代である。一方、労働者階級の子供たちは、親と同じような職業か、あるいは同レベルの職業に、できるだけ早く就くのが普通で、大学進学などほとんど夢の様な話だった時代である。ましてや先生は女性である。

そのような時代に先生が生まれた家庭は、そのエリート階級とは天地の差がある労働者階級に属していた。父親は、不安定な立場の工場労働者、母親は、家政婦としてフルタイムで働いていた。先生の上には数人の兄弟姉妹がいて、生活はきわめて苦しかったところへ、先生の誕生はいわば「予定外」であったらしい。しかも、第二次世界大戦中であり、ドイツ占領下、フランスは物資の欠乏に喘いでいた。

そのような極貧の環境にありながら、先生は早くから読書に目覚め、様々な手段を使って本を借りては貪り読んだという。最初は、古典文学に特に惹かれ、そこからプラトンへと導かれていった。しかし、その間、父親の失業など、生活の困難は続き、高校では、いわゆる伝統的な一般進学コースではなく、卒業後にすぐ専門の職業訓練に入るコースに通っていて、そのままであれば、秘書か会計の仕事に就くのが普通であったらしい。

しかし、学業優秀だった先生は、さらに学業を続けたいという意欲が高まっていくのをどうすることもできなかった。家族をはじめ、周りの理解と応援に助けられ、職業訓練コースから一般コースに転学し、さらにはエリート・コースに乗るためには入らなくてはならないグラン・ゼコールを目指す準備学級へと特別に入学許可を得た。

一九六〇年に全国哲学コンクールで一等賞に輝き、翌年ソルボンヌ大学に入学する。奨学金ももっとも高額なものを獲得する。しかし、猛烈な勉強を続ける一方で、家庭教師などアルバイトをいくつも続けなくてはならず、学部二年生の終わりには、病気で倒れてしまう。

翌年、幸いなことにドイツ政府給費留学生に選ばれ、かつては現象学のメッカでもあったフライブルク大学に一年間留学する。この一年間は、お金の心配から解放され、思う存分勉強し、ヒンディー語やサンスクリット語の勉強まで始め、一時は哲学からインド研究に転じようかと真剣に迷ったという。

留学後、ソルボンヌでは、特にポール・リクールとジャック・デリダの講義と演習に熱心に出席し、そこでフッサール現象学について多くを学ぶ。その傍らで、ハイデガーの『存在と時間』を多大な困難とともに読み始める。そのような集中的な現象学の勉強の中で、特に関心をもったのが言語の問題。修士論文のテーマとして「ハイデガーにおける言語と存在論」を選び、その指導教授はリクールであった。

そして、一九六八年、並みいる「エリート」たちを抑えて、哲学のアグレガシオンで第一位を獲得する。以後、大学の哲学教師としてのキャリアが始まる。

ご自身でも認められているように、先生のようなケースはきわめて稀である。しかし、このような、苦難を乗り越えて栄冠を獲得するという一見アメリカ風「サクセスストーリー」を、先生ご自身は、一方では、そのための自分の弛みない努力があったことを認めつつ、他方では、その中で人との数々の幸運な出会いがあったことを同じくらい強調される。先生の人に対する別け隔てのない開かれた暖かい心は、その両方が相まって培われたのであろう。

この章の最後には、形而上学終焉後、より端的には、ポスト哲学の時代であると先生がみなす現代に求められる「思想」の仕事は、どのような仕事であるべきかが述べられている。ハイデガーに依拠しつつ、ヘーゲルが言うところの「黄昏時に翔ぶミネルヴァの梟」のような哲学に替わる「思想」の使命を次のように規定する。

 

[...] la tâche de cette pensée qui reste à venir et qui ne serait plus métaphysique consisterait au contraire à s’ouvrir à ce qui advient et à tenter de dire cette entrée en présence de tout l’apparaître qui se dérobe sans cesse à la prise de nos concepts (p. 27).

 

この来るべき、もはや形而上学的ではない思想の仕事は、それ[=ヘーゲル的な哲学]とは反対に、到来するものへと己を開き、私たちの持っている諸概念による把握を絶えず逃れる現れるということまるごとの現前化を言い表そうとすることでしょう。