2. 4. 2 身体の「裏側」としての精神(1)
精神は、〈見えるもの-見るもの〉である自己身体によって所有された奥行に住まう。見るものは、見えないもの一般だけでなく、己に属する見えないものである「精神」をも世界に与える。このような意味において、メルロ=ポンティは、精神を身体の「裏側」(あるいは「向こう側」)であると定義する。これは単なる暗喩ではない。私たちは、メルロ=ポンティのこのテキストを、西田による次のような身体と精神との関係を規定するテーゼを読み解く鍵として読むことができると考える。西田によれば、「身体なくして精神はない」(全集第十巻四六頁)、精神と身体は、「一つの矛盾的自己同一的世界の両面、即ち歴史的世界の表裏」(全集第十巻二六九頁)である。
この裏側はまさに身体の裏側であり、身体へと溢れだし(踏み超え)、侵食し、その中に身を隠し、そこに根を下ろす。
« Cet
autre côté est vraiment l’autre côté du corps, déborde en lui (Überschreiten),
empiète sur lui, est caché en lui, s’ancre en lui » (VI, p. 313).
精神と身体との間には、どちらかが他方に対して優位性を有つということはない。いずれも他方に対して独立ではありえない。どちらかを他方に還元することもできない。しかし、両者は、同一化や融合によって等質化されるということもない。
精神の身体があり、身体の精神がある。両者の間には交叉性がある。
« Il y a un corps de l’esprit, et un
esprit du corps et un chiasme entre eux » (ibid.).
両者の間に見出されるのは、ここでもまた、見えるものと見えないものとの間の可逆性なのである。精神が身体から不可分なのは、見えないものが見えるものと不可分だからである。
しかし、精神と身体の間の関係を理解するためには、〈見るもの-見えるもの〉である身体から精神の存在へと到達するだけでは充分ではない。しかし、逆に、精神がもっぱら担うとされる思考から私の身体が主体である知覚へと立ち戻るだけでもやはり充分ではない。