2. 3. 2 物らがそれとしてそこにある奥行(2)
奥行こそが、諸事物が「私の視察に対して様々な障害を設け、己の現実・「開け」・「同時的現前」にほかならない抵抗を生み出す」(VI, p. 272-273)ことをもたらしている。諸事物の現実、あるいはそれらの「開け」、あるいは「同時的現前」を成しているところのものは、それらの本質を汲み尽くそうと欲する私の眼差しに対して、それらの諸事物が引き起こす抵抗だということである。諸事物が己の全体的理解を拒み続けるがゆえに、私の眼差しはそれを欲望する。それらが私の眼差しに対して常に部分的にしか顕にされないがゆえに、それらは知覚の領野においてその存在を開示する。
『知覚の現象学』によって開かれた地平を前提としながらも、メルロ=ポンティは、『見えるものと見えないもの』において、諸事物の存在の次元そのものとしての奥行を強調する。それは『知覚の現象学』前後の時期のメルロ=ポンティには見られない態度だった。最晩年の著作において、メルロ=ポンティは、知覚的経験の領野においてこそ、存在は己を隠蔽しつつ開示するという思想を前面に打ち出すに至ったのである。
奥行によってこそ、知覚の領野において「諸事物が〈肉〉を有つ」(ibid., p. 272)ということがもたらされる。知覚の領野は、その不可欠な次元として奥行を有っており、その奥行のうちにすべての物は現れる。私たちによって「対象」「即自」「実体」等として思考される前に私たちに与えられている見えるものにとって、奥行は不可欠な次元である。メルロ=ポンティは、知覚の領野で物として実現されるものを「肉」と呼ぶ。この意味で、奥行は、〈肉〉にとって不可欠な次元だと言うことができる。
以上見てきたところから、『知覚の現象学』と『見えるものと見えないもの』との関係は、どのように規定することができるだろうか。それは進歩でも、転回でもない。相容れない異質な思考同士の対立でもない。哲学探究の基本的態度は知覚的経験地平に立ち戻ることだという点においては、両者は一致している。メルロ=ポンティは、見ることや触れることによって己自身に対して現れる知覚世界に立ち戻り、そこに居を据えることによって、存在のすべての意味の起源とすべての意味の存在の起源とを探究する。『知覚の現象学』は、沈黙のうちに顕にされる知覚世界に立ち戻る。その世界に対して不偏不党な観察者や世界の構成者であるような主体を要請する外からの説明では、その世界に近づくことはできない。世界の豊穣さを私たちに忘却させる反省的思考によって供給される概念からなる覆いを取り除くことによって、知覚世界をそれとして顕にすることがそこでの主たる問題なのである。メルロ=ポンティは、非反省的次元・前反省的次元、世界経験の基層へと立ち戻ろうとするが、しかし、非反省的次元・前反省的次元はつねに反省へと関係づけられ、反省はつねに非反省的次元・前反省的次元へと適用されるものであることを忘れているわけではない。『見えるものと見えないもの』で今一度知覚世界へと立ち戻るのは、もはや知覚世界の諸現象を記述するためではない。それは、語る主体である私たちを通じて、その世界自身に己を自ら語らせ、己を開示させるためである。私たちに語らせることによって、知覚世界は自ら沈黙を破る。世界は私たちの身体を通じて己を表現する。
ここで私たちはメルロ=ポンティの思考が西田のそれと共鳴し合うのを聞く。「創造的要素として身体的に見る私に対しては、世界は表現的となる。物は生命の表現として現れる。表現が我を動かすと云ふのは、かゝる立場に於て云ひ得るのである」(全集第八巻六三頁)。私たちは、かくして自己表現的世界に到来する。「我々が創造的となる時、物は単に見られるのでもなければ、物は単に媒介者的でもない。物は我々の生命の表現でなければならない、即ち歴史的生命の表現でなければならない」(同巻六一頁)。