生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二) | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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「見るもの-見えるもの」である身体と「外から見られる」身体(
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メルロ=ポンティにおいて重要なのは、現象的身体あるいは自己身体が自己自身に見えるものとして現れるその固有の仕方である。私の身体は、私にとって見える現象として恒常的に生きられている。ここで問題になっている恒常性とは、「眼前から姿を消すこともありうる諸対象、つまり本来の意味での対象の、相対的恒常性の基礎となる、絶対的な恒存性」(« une permanence absolue qui sert de fond à la permanence relative des objets à éclipse, des véritables objets », Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception, Paris, Gallimard, 1945, p.108. 邦訳、中島盛夫訳『知覚の現象学』、法政大学出版局、一九八二年、一六七頁)である。自己身体は、〈私〉でありかつ同時に〈私のもの〉である。〈私〉は、自己自身を自己身体において、一つの内在性の外在性として、或いは一つの外在性の内在性として捉える。自己身体が自己自身に現れるのは、世界を「いっさいの規定的な思惟に先だって、これもまたたえず現存している、われわれの経験のかくれた地平」(« comme horizon latent de notre expérience, présent sans cesse, lui aussi, avant toute pensée déterminante », Ibid.,p.109. 邦訳、一六七-一六八頁)として現れさせることによってなのである。
 ところが、西田においては、自己身体の可視性は、何よりもまず、「外から見られるもの」であるということである。これは次の二つのことを意味する。第一に、身体は、自己自身を見ることそのことによって自らに外在性を与え、しかも、この外在性の自己贈与は、自己身体の内感の事実とはまったく独立に取り扱われていることである。第二に、自己身体の客体性は、我々の身体が見えるものとしてそこに生きている空間に、別の見るものが存在することを暗黙の内に前提していることである。人間の身体が外からそれとして見られるという事実は、自己自身にとってと同様に他の諸身体にとっても、それら身体すべてに共有された空間において、見える一対象であるという自己身体の存在論的性格を含意している。
 メルロ=ポンティにおいては、自己身体は恒常的に最も近くから見られたものという特権的な場所を占めており、それゆえ、自己自身にとって見える自己身体と、他の諸身体あるいは諸々の対象物のように多かれ少なかれ距離をおいて見られる諸要素との区別と関係が問題となる。ところが、西田においては、自己身体を見るということは、ただそれが外から見られるということしか意味しないので、そのような問題は提起されることがない。行為的直観によって開かれた空間において、自己身体は、他のすべての見えるものと同様に外から見られるという点においては、何ら特権的な位置を占めるものではない。つまり、自己身体とは、自己自身によって、他の諸身体や見える諸対象と同様な見える対象として取り扱われ、他の見るものたちが見るように、自己自身を見ることができるものなのである。しかし、このことは、自己身体を任意の第三者によって見られた客観的身体として取り扱うということを意味しているのではない。ここで問題になっているのは、自ら自己自身を、他の諸対象の間に見出される一対象として、自らによって生きられている空間において見ること、すなわち自己身体による前反省的自己客体化という、あらゆる客観的認識に先立つ作用なのである。