「好きです」は « Je t’aime » ではない(承前 2) ― 日本語についての省察(5) | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

 昨日の記事で予告したように、今日は、その冒頭に再掲した3つの大きな問題のうちの残りの2つ、〈愛〉と〈amour〉の文化的不等価性という問題と、言語表現の社会的機能の問題とについて、若干の私見を述べて、今回のこのテーマでの記事の締めくくりとする。
 フランス語の « amour » が対等な男女の間の自由な恋愛関係において成立するそれを指す場合、あるいは、それが神と人との関係におけるそれを指す場合、そのような« amour » は、日本にはもともとは存在しなかった。明治になってそれを「愛」と訳して、言葉として使うようになったというだけでは、日本にも « amour »の等価物が以後存在するようになったとは言えないのは、他の輸入概念と同様である。もちろん、「愛」という語が翻訳語として使用され始める遥か以前から、言葉として「愛」はあったわけだが、元々日本語の文脈における「愛」は、仏教用語からきたものであり、愛別離苦の1つを占める煩悩、「強く執着する」という意味であった。万葉集では、「親子・兄弟などのいつくしみ合う心」という意味でも使われている(旺文社『古語辞典』第10版)。平安文学では「かなし」と読ませ、「いとおしみ離れ難い心境」を表す。
 ちなみに、「恋」という言葉も古代から使われているが、万葉集には、「こひ」に「孤悲」という漢字があてられている歌が多数あり、この2つの漢字による表記は、この言葉のその当時の基本的な意味の、少なくともその一面を、見事に表現している。『日本国語大辞典』によれば、「恋」は、「目の前にない対象を求め慕う心情をいうが、その気持の裏側には、求める対象と共にいないことの悲しさや一人でいることの寂しさがある。」先に引用した旺文社の『古語辞典』の「恋」の項目には、「自分の求める人や事物が手中にある時は『恋』の思いとはならない。手中にしたいという思いがかなえられず、強くそれを願う切ない気持ちが恋なのである。[…]古語の『恋』は喜びにはならず、悲しさ、苦しさ、涙などと結びつく思いであった」とある。
 このように、言葉の歴史に一瞥を与えただけでもわかるように、「愛」と« amour » との文化的不等価性の問題を扱うには、文化思想史的に西洋史・東洋史を通覧しなくてはならないだろうし、それを横断するようなアプローチも必要だろうし、東西の文学作品を博捜することも当然しなくてはならず、他方、両概念と隣接あるいは近接する諸概念との比較を通じて、それらの間の意味論的差異を考察する言語学的アプローチも必須であろう。このような問題群が、一人の研究者のライフワークに値するテーマであることは言うまでもなく(実際に、フランスにもそれを專門としている人類学者がいる)、異なった分野の多数の研究者たちによって共同研究されるべき巨大なテーマであることも論を俟たない。そして、何よりも、研究者であるなしにかかわらず、およそ人と共に生きる人間であれば、たとえこのテーマに知的には無関心ではありえても、実存的にまったく無関係ではありえない。
 最後に、言語表現の社会的機能という問題について一言。この問題も一般的に論じることはとてもできないので、ここでのテーマである、 « Je t’aime » と「愛している」「好き」について、言語社会学的観点から若干の見解を述べるに留める。
 このフラス語の表現の使用は、何も恋人同士や夫婦の間に限られてはいない。親子、兄弟姉妹、親族間、親しい友人間でも使われる。そして、それは、告白のためや、特別な時に限って使われるわけでもなく、日常的に使われ、場合によっては、ちょっと安売りされているようにも私などには思われてしまうほどだ。しかし、それはともかく、この表現がフランス人たちによって頻繁に使われるのは、彼らが特に愛情深いからでもなく、惚れっぽいからでもない。この表現の社会的機能というべきか、あるいは文化的機能というべきか、それはともかく、その機能が、例えば、慈しむように髪を撫でたり、優しく肩を抱いたり、しっかりと手を握ったり、そっと膝に手を置いたり、温かく抱擁したりといった所作と同じようなものであり、いわば言葉による愛撫だと考えるとわかりやすいだろう。この文化では、言葉による愛撫が、人間関係において、特に大きな位置を占めていると言ってもよい。もちろん、そのことは身体的接触がその分少ないということをまったく意味せず、今いくつかの例を挙げたように、そっちの方もお盛んである。その意味では、フランス社会での人間関係における愛情表現は、多様性に富んでいると言うことができるだろう。そういう彼らには、いったい日本人はどうやって愛情表現するのだと首を捻りたくなるほどに、表現手段が少なく、またその使用機会が限られているように見える。もちろん、そのことは日本人が愛情に欠けるということを直ちに意味しないことは付け加えるまでもないであろう。ただ、味覚と言語の弁証法についての記事(622日・23日)の中でも述べたように、感じていることを言語化することによって、感覚がより鋭敏になり、その鋭敏になった感覚が言語表現をより豊かにするということは、愛と言語の関係においても言えるのではないだろうか。つまり、愛と言語の間にも弁証法が成り立つのではないであろうか。