授業で学生たちの喰いつきのいい話題というと「食」と「愛」である。少なくとも私が教えているフランス人学生たちはそうである。ちなみに、私が責任者をしている学科の登録学生の7割から8割が女子学生。
学校文法で言うところの形容動詞「好き」は、ごく初歩の段階で出てくる。ほとんどの学生は「私はマンガが好きです」と言う。とにかくフランスは質量共に世界一のマンガ輸入国であり、日本語学習の初発の動機が、マンガを日本語のオリジナル版で読みたいからという学生はウンザリするほど多い。そして、マンガやアニメで見たのか、一般には通用しない変な日本語を覚えては得意になっている愚かな学生も少ないとは言えない。「好き」が学習項目として再登場するのは、「好き」の前に名詞ではなく、動詞を置くときである。動詞の常体を学習した後、名詞化機能を持った「の」と「こと」の導入とともに、「好き」が必ず例文として使われる。これによって、それまでは「私は寿司が好きです」としか言えなかった学生が、「私は食べることが好きです」という文を作れるようになる。しかし、学生たちの中には、その文を言わなくても、見ればそうだわかる体格の子も少なくないので、そういう学生たちには他の動詞を使って作文するように要求する。
「君たち、日本語で « Je t’aime » は何と言う?」と学生たちに聞くと、待ってました、とばかりに、「好きです」「愛しています」「愛します」などの答えが即座に返ってくる。それに対して私は、「それらはすべて正解だが、すべて間違ってもいる」と応える。当然彼らは「わけがわからん」という顔をする。そこに追い打ちをかけるように、「日本語で « Je t’aime » ということは不可能である」と宣告する。彼らは愕然とする。「先生、日本人は人を愛さないのですか」「もし、日本人の彼氏/彼女ができたら、どうやって愛を告白したらいいのですか」などと真剣に聞いてくる学生もいる。「もちろんこれは極端な言い方だが、しかし、冗談を言ったのでもない。私が言いたかったのは、君たちがさっき挙げてくれた答えは、« Je t’aime » と等価ではないということなのだ。今日はこの問題をあくまで言葉の問題として考えてみよう。」そして説明に入る。
« Je t’aime » をより逐語的に日本語に置き換えるとどうなる? 学生1「私はあなた/君が好きです。」 学生2「私はあなた/君を愛します。」 学生3「私はあなた/君を愛しています。」よろしい、よくできた。文法的にはどれも完璧だ。では、順番にこれらの文を検討していこう。私は、君たちに、「が」は主語を示す、と教えたね。ということは、第1の文の主語は、「あなた/君」であって、「私」ではない。これが第1の問題。第2の問題は「好き」の文法的機能。これは動詞じゃないね。つまり、フランス語の動詞aimerには対応しない。では、この文はいったい何を言おうとしているのだろうか。
「好き」に対する主語は「あなた/君」であるということは、この文は、「好き」という感情の対象が主語として示されているということだ。この文で、「私」は、主語としてではなく、提題として文頭に置かれており、「好き」という感情の対象として「あなた/君」が立ち現れているのが、「私」に於いてだという意味で、場所的な限定を与えている。つまり、この文は「私に於いて、あなた/君が、好きな対象として立ち現れている」ということを言っているのだ。しかし、問題はこれで解決、とはいかない。問題はむしろここから先にある。実際の日本語の使用場面では、「好きです」とだけ言うことがしばしばあり、むしろそのほうが多いくらいだ。これについては、Augustin Berque, Vivre l’espace au Japon, PUF, 1982, p. 40-41(オーギュスタン・ベルク『空間の日本文化』ちくま学芸文庫, 1994, p. 31-32)に実に印象深いエピソードが語られているから、それを参照してくれたまえ。ちなみにこの本は、原著のフランス語版の方は絶版なのに、日本語訳は今でも文庫本で簡単に入手できるという皮肉なことになっている。でも、大学の図書館で見ればいいだろう。
繰り返すが、「好き」は動詞ではなく、何らかの動作・行為・行動を示しているのではない。それはある感情を示している。そして、それは一瞬の出来事ではなく、ある程度の持続性を持っている。いわば、「好き」という舞台の上に、「私」と「あなた/君」が登場人物として立っている、あるいは、「好き」という状態の中に「私」も「あなた/君」もすっかり包まれている。そこにおいては「好き」という言葉が発されるだけでいい、いや、その言葉さえ必ずしもいらない。あるいは「好き」という一言とともに舞台の幕が上がるときもあろう。もちろん、この「好き」な状態が必ずしも相思相愛を意味しないことは言うまでもない。しかし、片想いであっても、「好き」という感情がその人の知覚世界全体に浸透していることには違いはない。
ところが、 « aimer » は、状態の記述ではなく、アクションであり、具体的な動作や行為として表現される。しかも、誰が誰をということを明示することをこの動詞は要求する。では、「好き」のかわりに「愛する」を使えば、« Je t’aime » に近づくことができるのだろうか。この問題は、実はもっと大きないくつかの問題を孕んでおり、とても今日一日では扱いきれないので、今日のところは、それらがどのような問題なのかを、それぞれ一言で予示するにとどめる。
まず、「愛する」と「愛している」と « aimer » との意味論的差異の問題。次に、〈愛〉と〈amour〉の文化的不等価性という問題。そして、言語表現の社会的機能の問題。それではまた明日。