母歎きし事
そうして二人の子供の養父である曽我祐信は、当然のごとく、
「仰せの事、命令に背くことは致しません。召し連れて参らせます」と言って家屋の中に入り、二人の母に申した。
「亡き伊東殿は、君に御敵として亡くなられて、その孫も、二人の幼い者共を参らせよと、頼朝様の使いとして梶原殿が来られた」と言うと、二人の母は十分に聞き終わらない内に、
「辛い事でございます。この世の中はどの様になって行くのでございましょう。夢とも現実とも思えず、現に夢ならば、覚めることもございましょう。現実の身の上の悲しさも、彼ら二人がいた事こそ、数億の愁いも慰められました。自身が身の衰えることも知らずに、二人が何時か成人して、大人らしくなると、月日が過ぎるごとに頼もしく、後の世に懸けて思っていたのですが、斬られるために参るのでしょうか。私の後の愁いの身は、どうして長らえましょう。ただ諸共に付き従って、とにもかくにも何とかならないでしょうか」と泣き悲しむその声は、門の辺りまで聞こえてきた。現に園生(そのふ)に植えた紅は、焦げる色が現れて、よそに見えない哀れがある(優れた者はどこにおいても目に付くといういのことわざ)。
(鎌倉植木 龍宝寺内 石井邸)
堪えがたい思いは余りにもあり、母は子供を左右の膝に据え置き、髪を搔撫でて、説明するには、
「祖父伊東殿は、君に情けなく当たったために、その孫である貴方たちを召されるのです。いかなる罪の報いを受ける人が多くいるものの、御敵となる事は無いのが心の愁いです。しかしながら、貴方方の先祖は東国において、誰にも劣らず、知らぬ人もいなかった。君(頼朝様)の御前であっても恐れる事は無く、最期の時でも、意気地がないようではいけません。それほどにも勇ましかった父祖父が、世にあった理由で、御敵ともなりましたが、幼くとも思い切って、気後れする事はいけません。健気に」と申したが、涙に咽びこんでいた。
「現に、かなわない事であっても貴方達を留め置いて、その代わりに私が出て行けば、どのようになっても、心安い事ですが」と泣いていると、二人の子供は、聞き分けの無い事も無かったが、ただ泣くより他は無かった。下男下女に至るまで泣き悲しむ事は、八大地獄に数えられる叫喚(きょうかん:罪深い亡者が熱湯や猛火により苦しめられて大声で泣き叫ぶ所)・大叫喚の悲しみも、これには及ばないと思われた。時が移り、(梶原)景季は、使いを用いて母の方へ申すには、
「お名残は、理(ことわり)と思いますが、思いは尽きる事は無く、早く、早くいたすように」と責めるように申すと、曽我祐信は、
「承りました」と言って、喜ばざる出で立ちを急いだ。母も、今を限りの事なので世話をするのも哀れに見えた。
一万の装束には、精好の大口(せいごうのおおくち:厚手で美しい絹織物の一種で作られた袖口の広い袴)、顕紋紗の直垂(けんもんしゃのひたたれ:色々の紋様で織り出した薄絹に柿渋を引いた布の直垂)を着せた。筥王には、紅葉に鹿を描いた紅梅の小袖(表が紅で裏が紫の襲〔かさね〕の色目の小袖)に、大口の袴を着せた。このように世話をすることも、今日を限りと思うと、後ろに廻って前に立ち、つくづくとこれを見ると、一万が着た小袖の紋は納得がゆかない物であった。
さても徒なる朝顔の、花の上は露時の間も、残る例はなきものを(朝顔の花の上に置く露が、一時の間さえも残る例はないのに。朝が音露は、共にはかないものの喩に引かれる)。
そうして筥王の小袖の紋は、濡れて、鹿の一人鳴くらんも、憂き身の上の心地して、いよいよ袖こそ濡れまされ(「古今集・秋下・藤原家隆「下もみじかつ散る山の夕時雨濡れてやひとり鹿の鳴くらむ」)昔は何とも思わなかった衣裳の紋は、今は際立って目に付き、思い残す事も無い。やがて帰る道にさえも、さしあたる別れは悲しく、帰ってくることはあてには出来ない。人に見たり、見られたりする事も、今だけと思えば、心の落ち着きをなくし、正気を失うような気がした。
一万は大人のように、
「あまりお嘆きになられませんように。思いを見てみれば冥途の道が、穏やかな物ではあるとは思いもよりません。もし斬られるのであれば、前世からの因果とお思い下され」と言うと。筥王は、
「兄様の仰せられるように、御嘆かれなさるな。我々に手を出して敵に仕える身にでもございません。その上、いまだに幼いために、お許しなされるかもしれません。仏にもお願いしていてください」と、真にもっともらしく申すにつけて、いよいよ名残惜しくなった。いくらなんでも斬られる事は無いだろうと思うが、明らかに御敵であった。帰る事はあてにはならない。留まりおかれても、物思うことは悲しく、一所において共に死んでしまおうと思うことも哀れであった。祐信は、これを見て二人の母を制して言った。
「いくら何でも、斬られる事はあるまい。誰もが良きように取り成して下さり、きっと遠い国へ配流に置かれると思える。そのようになったとしても、命さえあれば」と慰めおいて、二人の子供を誘(いざな)い出ていくが、心の内は悲しさに包まれていた。母は、梶原景季がいるのも憚らず(はばからず)、予想もつかない時にこそ恥も人目も憚られるだろうが、本当の別れとなると、裸足で歩いて乳母諸共に庭に迷い出て、
「しばらく待たれよ、お前たち。一万。止まりなさい、筥王。わが身は如何したら良いのか」と、声を惜しまず泣き悲しむと、下男下女に至るまで、
「今暫く」と泣き悲しむ有様となり、例えようもなかった。
(鎌倉植木 龍宝寺)
時には馬の口取り縄を取り、また時には、直垂の袖をすくうように、景季もまた勇猛な武士ではあるが、涙にこらえきれず咽びこんだ。
「つまらない使いを賜り、この様な哀れな光景を見ることは悲し過ぎる」と言って、直垂の袖を顔に押し当てて涙を流す。母は、なおも歩みを止めずに門の外まで惑い出て、二人の子の後姿を見送り、泣くより他は無かった。子供たちも後ろを見返り、乗る馬も急がず、後に心を留め残した。互いの思いは、そのように推し測られて哀れである。母は、子供たちの後姿が見えなくなるほど遠ざかって行くと、直ぐに倒れ伏した。女房たちが、急ぎ引き立てて、ようやく世話をして泣く泣く家屋に入っていった。持仏堂に入り、懇願するには、
「一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺の慈悲の誓願には、枯れたく先にも花が咲き、実がなると聞きます。どうして子供達の命をお助けいただけないのか。我等は、幼少の古より、深く信心し参りました。此れからは、毎日に、三巻の観音経(法華経の第二十五品『観世音菩薩門品』の略称)を怠らず唱えますので二人の命をお助け下さい」と酷く苦しむように慕う姿が無慙であった。せめてこの事だけでもかなうようにと、仏に向かって懇願するには、
「本当に、彼らの父が討たれた時には、身を投げて死んでしまおうかと思い苦しみましたが、二人を世に立てようと思って、味気なく命を長らえて、望ましくもない生活も情けなく過ごした事は、ひとえに子供の為でございました。二人が斬られ参らせた後には、一日の片時(かたとき)も、身は誰のためにも惜しいとも思いません。願わくは、私の命を取って下さりませ。二人の一所に迎え取らせ給え」と、声も惜しまずに泣いた。本当に、身に思いのある時は、科(とが)もましておありになる神仏を恨み申して、泣いては懇願、恨んでは泣き、横たわらない事こそ、精一杯の事と思われた。 ―続く―









