北条、兼高を婿に取る事
こうして年月が過ぎてゆくと、北条四郎時政は、大番役を終えて京より所領に下ったが、その道の途中でこの事を聞き、大変な大事になったと考えて、平家に聞こえたらどのようになるだろうと、大いに騒ぎ思った。しかし、静かに物事を考えると、時政が先祖の上総守直方は、伊予殿(源頼義)関東下向の時に、婿に取り、八幡太郎義家殿以下の子孫が出来た。そして今に栄えたことは年久しい。このように昔を考えてみると、悪い様には無いと思ったが、平家の侍に、山木の判官兼高と言うものが所領のある国に下る道にて一緒であったため、何となく事のついでに、貴殿を時政の婿になっていただけないかと言った言葉には、源氏の流人を婿に取ったと訴えられては罪科を逃れるのは難しい。どのようにしようかと思いながら、伊豆国府に着いた時、この目代兼隆に言い伝えて、知らぬ顔をして娘を取り返し、山木の判官に嫁がせた。しかしながら、佐殿(源頼朝)と夫婦の縁が深く、一夜をも明かさずに、その夜の内に逃げ出して、近くに召し使う女房一人を共にして、深い草むらを分け入り、行くほどに山路の峠を越えて、夜もすがら、伊豆の御山(伊豆山権現)に分け入られた。夫婦の縁が無くならなければ、出雲路の神の誓は浅くはない。夫婦の仲は変わらずならば守られよう。もし祈願が叶うなら、後の世に渡って諸共に、住み果てることが出来るよう祈られた。
(江ノ島)
牽牛・織女の事
そもそも、出雲路の神と申すのは、昔、桂陽(けいしょう?)という国に、男を伯陽(はくよう)と申し、女を遊子(ゆうし)と言う夫婦がいたが、月を伴って、夜もすがら寝る事も無く、道に立ち、夕べには東山の峰に心を澄まし、月の遅く出ることを恨み、暁には西天の雲に詩歌を吟じて、曇なき夜を喜び、雨雲の空を悲しみ、年を送る。伯陽が九十九の年に、死ぬ事に臨もうとした時に、遊子に向かって申すには、
「私が月に伴い、愛する事は、世の人に越える事である。一人になっても、月を見ることを怠らないように」と言うと、遊子は涙を流して、
「貴方が本当に死なれるなら、私一人で月を見る事は無いでしょう。私も共に死にましょう」と悲しむと、伯陽は重ねて言う。
「偕老同穴(かいらいどうけつ)、共に暮らし負い、死後は同じ墓穴に葬られる契りは、百年に相当する。月を形見に見なさい」と言って、ついに命が絶えてしまった。約束を交わした遊子は、家に入る事も無く、月に伴い歩き続けたが、これも限りある事で、終に遊子も亡くなった。しかしながら夫婦諸共、月に心を魅かれた故に、天上の報いを受けて、二つの星になったという。牽牛・織女はこれである。また縁結びの神様とも言われる。また道祖神として、七夕の神として現れる。夫婦の仲を守る誓は、非常に強く思われる。
また伝え聞く漢の高祖は、芒揚(ぼうよう)山と言う山に籠っていると、その妻呂后紫雲(ろこうしうん)を標とし、深い山路に分け入る志ざしは、これには過ぎると思えた。さて、佐殿へ密かに人を参らせて、この様に申されると、鞭を挙げてこの山へ登られた。目代は探されたが、なお山は深く入る事は出来ず、力及ばずに探されるのを止められた。北条は、知らない顔をして年月を送られた。伊東の振る舞いが変わったのは、前世の善行によるこの世での因果・所業であった。
(鎌倉 長谷寺)
盛長の夢の事
ここに、懐島(ふところじま)の平権守景信(大庭景義)と言う者がいた。この程、兵衛佐殿、伊豆の御山に忍んでおられる事を伝え聞き、
「このような時こそ、主君の為に仕えなければ」と言って、一夜の宿直(とのい:主君の寝所にて警固すること)を勤める。藤九郎盛長も同じく宿直を勤めたが、夜半の途中に、はっと目をさまして申すには、
「今夜、盛長こそ、君の御為に、神仏霊験を蒙りたまえ。御耳を傍立てて、御心を鎮め、確かに聞こえてきた。君は、矢倉岳(現神奈川県南足柄市矢倉沢。足柄峠の北に当たる)に腰を掛けられて、一品房(頼朝の右筆、一品房昌覚)は金の大坪を抱いて、実近(不詳)は御畳を敷き、成綱(佐々木三郎盛綱か?)は、銀の折職に金の御盃を据えて、盛長は銀の酒の入った銚子で酒を御盃に注がれた。君は、三杯召された後に、箱根御参詣され、左の足にて外の浜を踏み、右の御足には喜界島を踏んでおられた。左右の御袂には月日を宿され、小松三本頭に頂き、南向きに歩まれたように見えた」と申すと、佐殿はそのことを聞かれ、大いに喜ばれて、
「頼朝、この暁に、不思議な霊夢を被った。例えば虚空より山鳩三羽が来て、頼朝の髻に巣をつくり、子を産んだように見えた。それらすべては、八幡大菩薩の守っていただけて、頼もしく思った」と仰せられたのは、世にも稀なこれは、めでたい事の前兆であると思わない人はいなかった。 ―続く―



