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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

頼朝七期落ちの事

 こうして兵衛佐頼朝の謀反は、平家の侍の和泉判官山木兼隆が、当国の目代として山木の館に居るのを夜討ちするため、八月十七日の夜に時政親子を始めとした佐々木四郎高綱、伊勢の加藤次景廉、景正以下の郎従らを差し遣わして、討ち取った。

ここに相模国の住人、大場三郎景親は、平家の重恩に報おうとして、当国伊豆の石橋山に頼朝を追い詰め、散々に戦った。是のみならず、武蔵・上野の武士達は、我らが劣るまいと馳せ向かい、防ぎ戦った。その中に、坂東八平氏の秩父氏の一族である畠山重忠は、父重義・伯父の有重が当時平家の勘当(不興を蒙るため)にて京都に召し置かれていた最中であったために、重忠はその咎を晴らし、国土の狼藉を鎮めようと思い、相模に向かった。また坂東八平氏の一つ、相模国の三浦党は頼朝の謀反に力添えするために馳せ参じようとした。鎌倉の由比と言う所に両者が出会い、散々に戦うこととなったが、重忠が打ち負けて、危うく死にそうになったので、武蔵に帰った。その後に、江戸・河越を始めとして、武蔵国の兵等一千余騎で、三浦に差し寄せ、身体と命を投げ捨てて戦うと、三浦は終に打ち負けて、三浦大輔義明一人となった。齢が九十余りになるが、子孫に向かって申すには、

「兵衛佐殿の運命が栄えたり衰えたりする時が今である。我等一人でも死に残るならば、お助け申し上げろ」と申し置いて、腹を切られた。そうして、伊東入道祐親は、もとより佐殿に恨みを抱いていた者であったので、一合戦するために石橋山に馳せ向かったが、頼みにしていた畠山が打ち負けた時であったために伊豆の御山より引き返した。

 

(鎌倉 来迎時 三浦義明墓所)

 そうして頼朝は軍勢が少なく、心は勇猛に思われたが、この合戦に勝つようには思われなかった。併しながら土肥次郎(実平)、岡崎悪四郎(義実)、佐々木四郎は、命を惜しまず、戦っているその間に佐殿(源頼朝)は逃れて、杉山に入られた。北条三郎宗時(北条時政の嫡男)、佐奈田与一(義忠:岡崎義実の子)も討たれた。佐殿は、七機を打倒し、髻が解けて髪が乱れ、大木の伏木の洞に隠れた。夜明けを待って、山を忍び出て、安房国(千葉県東部)龍崎へ渡られる。海上にて、三浦の人々、和田小太郎義盛等に出会い、舟をこぎ寄せて互いに合戦の次第を語った。義盛は衣笠城での戦で義明(三浦大輔)が討たれたことを話すと、土肥・岡崎はまた、石橋山の合戦で岡崎の子、余一が討たれた事などを語り、互いに鎧の袖を涙で濡らした。 そうして安房国に渡り、それより上総を越え、千葉介に会い、供だって次第に攻め上り、相模国の鎌倉の館に着かれた。これに伴い、関東の武士達は、心を寄せて従わない者はいなかった。そうなると、平家は驚き騒ぎ、度々討ち手を向かわせたが、ある日は鳥の飛び立つ羽根の音を聞いて退く者もおり、また戦場に堪えられずに鞭を打ち馬で逃げる者もいた。これは普通の事ではなく、ただ天命のいたす所であった。昔、周の創始者の武王の父文王が、殷の紂王を討とうとした時に、冬の天気に雲が冴えて雪の降り、一丈余りになった。五車二馬に乗る者は門外に来て、そのことを示していると、文王は勝機を得た。狩るがゆえに、主君に反撃する家臣はほどなく敗北して、天下は実に穏やかになった。

  

『曽我物語』においては、この頼朝の挙兵から石橋山の合戦、安房へ退避する。そして再び関八州の武士達を従属させ、河内源氏、源頼義と八幡太郎義家の拠点とされた鎌倉に入ったと記される。この鎌倉は、平安中期の頃、平直方が統治しており、直方は桓武平氏の国香流の出であった。平将門を討ち取った平貞盛の玄孫とされる。摂関家の藤原頼道(道長の長子)に仕え、京都に本拠を置いていたが、長元元年(1028)六月に起きた平忠時の乱において、関白藤原頼道の推挙で、後一条天皇の裁可が下り、父平維時が追討使・上総介として勅命を受け、検非違使右衛門少尉・平直方が父と共に関東に下った。この人事は、直方が関白・藤原頼道の家人であったための推挙であったと推測される。しかし、長元二年(1030)二月に朝廷が東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠時追討の官符を下したが、三年にわたり鎮圧することが出来ずに、房総三カ国(上総、下総、安房)にまで乱が広まり、大いに荒廃した。長元三年(1031)七月に朝廷は、直方を解任し、九月に甲斐守に任じられていた源頼信に追討使を任じて忠時討伐を行うために嫡子頼義と共に下向する。頼信は、常陸介在任中に忠常を臣従させており、疲弊していた忠時はかつての主に対して速やかに降伏した。『陸奥話記』では、頼義が多大な武功を挙げたとするが、藤原実資の日記『小右記』長元四年七月一日条には、忠常は戦わずして降伏に応じたと記されている。

 

 また『陸奥話記』に直方が、小一条院の判官代として頼義が活躍しているのを見て、娘を頼義に嫁がせたとされ、二人の子である八幡太郎義家が生まれたのが、長暦三年(1039)の事であるため婚姻は、頼義が相模守就任後ではないかとする説もある。また、南北朝期に時宗の僧・由阿の『詞林采葉抄』には、頼義が相模守として下向した際に直方の婿となり、長男義家が誕生したので直方が鎌倉の大倉にあった邸宅・屋敷、そして所領を譲渡し、それ以降にこの地が河内源氏相伝の地となった事が語られている。その後、奥州・陸奥での前九年の役に頼義が陸奥守・鎮守府将軍を兼任して坂東平氏を臣従させたことにより東国・坂東の拠点としてこの地を相伝していった。頼朝の父源義朝は、少年期に都から東国に下向し、父為義が伝領する安房国朝夷郡丸御厨へ居住している。その後に上総国に移り、当地の豪族であった上総氏の後見により「上総御曹司」と呼ばれ、坂東平氏の三浦氏、上総氏、千葉氏にも庇護された。その後相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐり在地豪族間の争いにも介入しており、これらの件により南関東へも勢力を伸ばしたとされる。義朝の長男の義平の母は三浦氏の出とされ、次男朝長は波多野義通の妹とされ、頼朝の二人の兄は平治の乱において討たれ、十四歳の頼朝は、父義朝と兄たちと近江国ではぐれて捕縛され生き残った。本来斬首であったが、平清盛の継母の池禅尼の歎願により、死罪を免れて、伊豆に流罪となっている。この流罪は、平家の恩情であるが、何故、河内源氏相伝の地の隣国の伊豆国が選定されたのかは、それを示す資料はない。  ―続く

 

(鎌倉 由比若宮 元八幡)