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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 ここに、伊東九朗(祐清)と言うものは、父伊東入道(祐親)の次子で、一緒に誅罰されるべきであるが、彼においては、頼朝に仕えて功績があった。死罪を許され、(頼朝は)召し使えるように仰せが下された。しかし祐清は、

「不忠の者の子で面目ございません。その上、石橋山の合戦で、まさしく君を討とうと、立ち向かった者が、存命しても、人々と等しく信頼されるとは思いません。争乱においては、首を召される事こそが深い御恩でございます」と望み申し、けなげな様相であると思えた。このような心持ちであったので、君(頼朝)を打ち逃した事が今さら理解される。君(頼朝)は尋ねられた。

「申し上げる所に辞儀(言葉に)偽りは無かろう、止むを得ない。しかしながら、忠の者を斬るならば、天の御覧になられるのでは」と言って、斬るのは如何なものであろうと考える。九朗(祐清)は、重ねて申した。

「お許しが有るのならば、たちまち平家へ参り、君の御敵になり、敵に通じて背後から放つ矢の仕いとなります」と再三申したけれども、受け入れられずに、

「たとえ敵になると言えども、頼朝の手により、斬る事は無いだろう」と仰せ下されたので、力及ばず、京都に上り、平家に奉公した。しかし北陸道の合戦の時、加賀国の篠原(現石川県加賀市片山津町)で斎藤別当(実盛)と一緒に討死して、名を後代に留める。良い侍の振舞として武士としての正しい道をこれに示した事で、惜しまぬ者はいなかった。

 

(ウィキペディア引用 伊藤祐清像)

鎌倉建立の事、

 さても佐殿(源頼朝)の、北の方(伊東祐親の三女)を娶った江馬四郎も討たれ、その跡の所領を北条小四郎義時に与えられた。そうして、義時を江馬小四郎と申す。この度、討たれた侍共は、相模国には波多野義常、大庭三郎景親、海老名源八季貞、荻野五郎俊成。上総国には上総介。陸奥国には秀衡の子供を始めとして国々の侍五十余人が討たれた。また平家には、屋島(平宗盛)大臣殿、本三位中条重衡を先として、斬首された、また自害する者たちは多数であったために記すには、及ばない。源氏には、御舎弟三河守範頼と九朗判官義経、外には木曽義仲、甲斐国には一条忠頼(甲斐源氏、武田義信の嫡男)小田入道(未詳:安田三郎義貞か?)、常陸国には志田三郎先生(源為義の孫、義朝の弟の義賢の子)を始めとして、以上二十八人、かれこれ討たれる者は百八十余人であった。この内に、冤貶(無実の罪で地位を落とされた)の者は、わずか三人であり、一条次郎、三河守、上総介である。この他はみな自業自得であった」と言われた。

 さて鎌倉に居所を決められて、郎従以下、軒を並べて、貴き人も下賤の者もその近辺に住んだ。これは、『政要(貞観政要:中国唐時代に呉兢が編纂した太宗の言行録)』の言葉に、

「漢の文帝は千里の(一日千里を走る)馬を辞し、晋の武王は雉頭(ちとう:雉の頭部の美しい毛)の裘(かわごろも:飾った皮衣)を焼く」とは、今の御世に知られていた。「民の竈(かまど)は、朝夕の煙豊かなり(煙立つ民のかまどがにぎわえば、豊かさを現わす)。賢王世に出れば、鳳凰翼を伸べ(中国の想像上の獣で聖人の出現により現れるという)。賢人国に来たれば、麒麟蹄を研ぐ(麒麟ひずめを研ぐ:優れた臣下が来れば、その才能により、次の大きな行動や活躍のために準備をする)」と言う事も、この君の時に知られており、めでたい御事であった」。

  

※伊藤祐清は、伊東祐親の次男とされ、源頼朝の乳母である、比企尼の三女を妻としている。その為伊豆の流人であった頼朝と親交があったとされ、『曽我物語』安元元年(1175)九月ごろ、平家の家人である父祐親が頼朝を討とうとした際に知らせて頼朝を逃がした。『吾妻鏡』治承四年十月十九日条に、頼朝が祐清にかつて救われたことにより、恩賞を与えようとしたが祐清は父の敵となっている以上その子である者が恩賞を受ける事は出来ないとして、暇を乞い、平家方に就くために上洛している。『吾妻鏡』建久四年(1193)六月一日条に、祐清がその後に平家に加わり北陸道の合戦で討死してとある。『曽我物語』と同様である。また『平家物語』(覚一本)では、篠原合戦で伊東九朗助氏(祐清)が討死したと記される。そして『吾妻鏡』養和二年(1182)二月十五日条では、伊東祐親が自害を遂げた際に、祐清が自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したとある。治承四年十月の記事と、建久四年六月の記事において矛盾しており、何故祐清が、『吾妻鏡』『平家物語』『曽我物語』に登場するのかと考えると、これは祐清が父に従う孝道の美談ととらえられている事が挙げられるが、それだけでは不十分である。子がいなかったとされる祐清夫妻は、河津祐泰が工藤祐経に討たれた際に、祐泰の妻が腹の中に宿していた子を引き取っている。曽我兄弟一幡、筥王の弟で律師である。祐清の妻は後に、河内源氏の新羅三郎義光の四男の平賀義信と再婚し、律師も共に引き取られた。祐清と死別した後に比企尼の計らいか、頼朝の計らいかは不明である。しかし律師は、曽我兄弟の仇討後に連鎖して鎌倉に呼び出されて、斬首される事を思い、鎌倉の甘縄の地で自害している。そして後に、祐清の妻である比企の三女の実家は、比企の乱で滅び、義信との間に生まれた平賀朝雅は牧氏事件で誅殺された。因果とも言えようが。まさしく奇妙な系図を現わしている。ここに頼朝と伊藤の関係が複雑に交錯し、互いに執念の存在を見せつけているように思う。

 

(鎌倉 甘縄神社)

 東京大学礫氏編纂所名誉教授であった保立道久氏は、真名本『曽我物語』第三巻冒頭の従来頼朝と北条政子との関係を持ち始めたと記される安元二年(1176)三月は、頼朝と政子が関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘した。保立氏は大姫の誕生を安元二年三月とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くとも安元元年の初夏、則ち伊東祐親が京から戻る直前となる。祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前を殺害したのは、平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり、娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している。「うわなり打ち」とは後妻(うわなり)打ちと記され、平安期から江戸期にかけて、夫がそれまでの妻を離縁して後妻と結婚する時、先妻が予告した上で後妻の内を襲うと言うものである。『権記』『御堂関白日記』『宝物集』等にも、記されている。『吾妻鏡』寿永元年(1182)六月一日条に、懐妊した政子が、頼朝の寵愛する亀の前に後妻打ちを行い、居住する家屋を破壊させた事が記されている。頼朝と政子の関係は、祐親から見ると客人である頼朝が、伊東氏一族に深く食い込むことで祐親との力関係が逆転し、伊東氏の事実上の「乗っ取り」に至る危惧を抱かせた事にある。また保立氏は、祐親に千鶴御前を殺害された事に憤慨し、頼朝が、祐親に恨みを持つ工藤祐経を唆して奥野の狩場で祐親を襲撃させて祐親の嫡男の祐泰を殺害させ、その事情を知った祐泰の遺児である曽我兄弟が富士の巻狩りの場で頼朝の命をも狙ったとする説を提唱している。

 

 保立氏は頼朝と祐経が共謀した証拠は無いものの、工藤祐経の弟宇佐美祐茂や同族の工藤茂光が早くから頼朝と結んで挙兵に参加している事や、工藤の本拠であった伊豆国狩野(鹿野)に祐経の従者・大見八幡が隠れ住み、襲撃を狙っていた事を挙げ、頼朝と祐経の間に何らかの関係があった事を否定できないとしている。私見において、伊東祐親の自死においても、伊東祐親が源頼朝に大きな確執を抱き、恨みに思っていた事を確認できよう。また頼朝も、祐親に対し恨み、祐親の存在自体が疎ましかったのではないかと推測してしまう。

これらの推測による異説が唱えられている事は、『曽我物語』の物語の過程を見て、『吾妻鏡』等の他資料を開くことで、推測が、一つの説になる事を伺い見ることが出来る。『吾妻鏡』に記される矛盾点やの不明点が見事に解消され、『曽我物語』の真髄と奥深さが理解されるのである。

―続く―