年老いた者たちの座敷の末席に至る河津祐泰が立ち上がり、舅の土肥次郎の許に行き囁いた。「今日の御酒盛りには老若の違いはなく、どういうわけか『祐重一番』の相撲を取れと言われません。空しく家に帰るならば、若きものとして老人のように思われます。一番相撲を取る様にと仰ってください」と言うと、実平はそれを聞いて、俣野の言葉の口惜しさで相撲を取ろうと言うなら、婿が負ければ面目がないと思い、返事にも及ばず、顔を赤らめて恥じ入るようにそこに居続けた。父の伊東祐親がこれを聞くと、子でありながら、力が強く、取らせてみてはと思ったが、ためらいながらも、この言葉を聞き、「よくぞ申した。出で立って相撲を取れ」と言うと、祐泰は直垂をぬぎ、白き手綱(ふんどし)を二筋より合わせ、かたく締めて出ると、「伊東方の者が出て、御相撲に参らん。俣野殿」と言う。景久はそれを聞いて腹を立て、「相撲はこれでなくてはならない。出で合わせるというのは常の事。相撲の座敷にて、左右なき相手の名字を呼ぶことは無く、氏と言い、器量と言い、河津には負けない。二の腕を押し折ってしまうものを」と笑って河津祐泰が出でるのを見た。その姿は菩薩のような柔和で、色は浅黒く、背丈は六尺二分(約183センチメートル)、齢は三十一であった。また俣野の姿は、いかり肩で、顔は骨格が出て、首が太く、頭小さく、下半身が太く、腰の辺りは引き締まった(金剛)力士のような強そうな姿をしていた。背丈は五尺八分(約155センチメートル)。齢は三十二であった。
二人は、差し寄り、褄取りひしひしと押しては離れると、河津が思うには、俣野は聞いていた程には、さしたる力もなく、今日の人々が多く負けるのは、酒に酔ったか、臆した故であると考えた。今では手ごたえもないであろうと思が、視点を変えて考えてみると、俣野は相撲の大番勤めに、都に上り、三年の間、都にて相撲に慣れて一度も不覚を取ったことの無い者である。それ故に、院・内の御目にかかり、日本一番の名を得たる相撲取である。今この場所で無造作に負かさんことは、返って言い甲斐が無いと思うと、二度目には差し寄り、左右の腕をつかんで、右手にいる下級の雑人の上に押しかけて、膝をつかせてしまった。俣野はおとなしく引きさがる事無く、「ここにある木の根にけつまずき、不覚の負けをした。いざ、今一番取ろう」と言うと、大庭景親がこれを聞き、走り出でて、「実に実に、ここに木の根がある。真ん中にて勝負し給え」と言うと、伊東祐親がこれを聞き、「河津の膝、少しぐらぐらしてように見える。本業の相撲取りなればこそ恨みも残るだろう。ただ一座の一興に、負けてしまって面白い。出で合い申せ」と言うと、河津はすぐに出て来て、俣野も出ようとした。しかし一族の者が、「いかに相撲を取ろうとも、勝つだけである。ただこのままに入りたまえ。相手を論破する相撲に勝負はない。相撲に勝つ事こそ勝る物は無い。この度敗ければ二度の負けとなる」と言うと、俣野が言うには、「河津は、力は強いと思うけれど、相撲の古来の作法には、その様ではない。見ていて下され」と言い捨てて、なおも出ようとするところ、少し止めて言うには、「河津の手合いをよく見れば、そなたより際立って優れている力である。あのような相撲取りには、左右の手を上げ、足の指先を上に向けて上手に構えて待ちたまえ。敵も上手に目をかけて、打ちのめそうと寄る所に小肘を打ち上げて、時を置かずに、手綱の後ろの結び手をつかみ、足を抜いて跳ね回れ、大力も跳ねられて足の立ち所が浮く所を、素手で足を取って見よ。組んでは勝つことが出来ぬ。もし、組まずにいられなければ、片足を相手の内またに掛けてひねり倒し、じわりと髻を地面に掃かせ(地面に倒す事)、一跳ね跳ねてサッと激しく投げ打て。組み合った後には、相手と何度も離れるような事があっては見苦しいぞ。
侍相撲というのは、寄り合うことで勝ち負けがある。あまりにも早ければ、技を見分けられない。また、この様な年のいった者は、煩(わずら)いなく打ちのめして、相手の首に手をまわして攻めて、背をかがめて回る所を、相手の手を逆に取ってひねり上げ、蹴倒して見よ。相手は、真っ逆さまに落ちて負けてしまう」と子細を教えると、景久は「心得たり」と言って出で合った。
教えの如く、つま先を立てて、腕を上げ、隙があればと狙いを定めた。河津は、前後相撲はこれが初めてで、訳も無く、するすると歩み寄り、俣野が抜けようと相対したところ、右の腕をさっと伸ばし、俣野が手綱の前の方を掴んで引き下がると、乱暴に動いたが、手綱も腰も切れず、しばらくすると、力を込めて引き寄せた。目より高く差し上げて、転じて横さまに片手を放ち、勢いよく打ち倒した。俣野は、やがて起き上がり、「相撲に敗けるは、常の習い、何故そなたが片手技を」と言うと、河津は、「以前も勝った相撲を考えてみると、今度は、真ん中にて、片手を持って打とうと考えた。いまだ御不信があれば、もう一度ご覧頂くか、人々」と言う。大庭景親は、これを見て童に持たせていた太刀を急いで手にとり、するりと抜いて飛んで掛かろうとする。座敷は、にわかに騒々しくなり、人々はさっと立ち上がった。伊東方による者もおり、大庭方による者もおり、両方が、防ごうとして詰めかけると、銚子・盃は踏み割られ、酒肴も散乱した。身分の低い兵の雑兵たち三千余人までも、戦をしようとひしめいた。
兵衛佐殿(ひょうえのすけどの:源頼朝)は、これらを見られ、「如何に、頼朝に情けを捨てて、仇(敵対)を結ぶのか。大庭の人々」と仰せられると、大庭平太(景義〔かげよし〕:景親の兄で保元の乱にて源義朝に従軍。矢により負傷し、その後歩行困難となる。家督を弟景親に任せ懐島に隠棲した)が承り、「田舎住まいの者共の、(都へ)出仕慣れしていないので、この様な狼藉をいたしました。相撲は負けても恥ではなく、我が方の人々は、味方などと言ってはならない。個々に遣いを立てて申すべき事がある。後日に決して争うことがないように」と怒り声で言われ、景義が鎮められたので、誰もが静まった。伊東は、本来意趣(恨み)は無かったのでやがて人々は収まった。これは瓊瑶(けいよう:『葛氏外篇』『抱朴子』の喩蔽)が、少ないものは貴なりとし、多いものは卑しまれるとし、磧礫(せきれき:河原にある小石)は多くを以て賤いとする。人が多いと言っても景義の言葉一つで静まった。このような好機を得て、工藤祐経の郎党共が、大勢の人々に交わり、隙を窺っていたが、哀れにも、いかなる事も起こす事は出来なかった。何となく戦う振りをしながら、間近に寄って、伊東父子の間にはいり射殺そうと思い着いて回ったけれども、事が静まってしまえば本意を遂げず。狩り蔵も過ぎてしまえば皆退散に及んで、二人は、七日の間、夜昼心を砕き四海もなく、空しく帰ろうとした。 ―続く―