鎌倉散策 鎌倉歳時記 二、鎌倉の歴史を記する諸本 戦記物語 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

  

 戦記物語として、『平家物語』『曽我物語』『承久記』『太平記』は。鎌倉期の戦乱を描いている。また、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』四作品は「四部之合戦書」『平家物語勘文録』と称され、保元から承久に至る武士の勃興期の戦乱を一続きにしたものと認識され、『愚管抄』での『保元の乱』を「武者の世のはじまりとする」の認識と一致する。この鎌倉期の初めにより、古代から続く中国を模倣した律令体制から、新しい武士の時代へと転換してゆくのである。その中で『平家物語』は、日本人の道徳観・文化的概念に影響を与え、現代にも継続する者が多々ある。

  

 『平家物語』という題名は、後年の呼称で、『保元物語』や『平治物語』と同様に戦記物語として世に知られている。仁治元年に(1240)に藤原定家により書写された平範信の日記に、「『平範記』の紙背文書に『治承物語』六巻号平家候間、書写なり」とあるため『治承物語』とも呼ばれていた可能性がある。高倉帝から後堀河帝の六代の天皇を記した編年体の歴史物語である『六代勝事期』が鎌倉前期に書かれており、これらの事から『平家物語勘文録』は、鎌倉期の中期に成立したと推測する。

『平家物語』は、作者不詳の戦記物語で、平家の栄華と滅亡、武士階級の台頭などが描かれた。具体的に作者を明記しているのは、兼好法師の『徒然草』のみである。盲目僧として知られる琵琶法師が日本各地を巡り、口承で伝えてきた語り本と、語り本を読み物にして増補された読み本系統の物がある。『平家物語』には多くの異本があるが、『源平盛衰記』『源平闘掾録』などある。現在流布する『平家物語』は語り本の覚一本系の高野本であり、壇の浦で海に投身して助けられた建礼門院(平徳子)が出家して、尼僧として京都大原の寂光院にて壇ノ浦の海中に沈んだ安徳天皇と平家一族の菩提を弔う後日談と、侍女の悲恋の物語である「灌頂徴」で『平家物語』の幕を引いている。この唱導的な描き方が、その後の日本人の文化・道徳観に多大な影響を与えた傑作と言えるだろう。

 

 作者については、兼好法師の『徒然草』の第二百二十六段に平家物語の作者の記述として、

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)、稽古の誉れありけるが、楽府(がくふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳(しちとく)の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠(くわん)者の異名を付きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事をことにゆゆしく書けり。九郎判官の事は、くはしく知りて書きのせたり。蒲冠者(かばのくわんじや)の事は、よく知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生仏、東国の者にて、武士に問い聞きて書かせけり。かの生仏が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり」。

 

 現代語訳、「後鳥羽上皇の治政された時に、信濃前司行長は、学問に通じているという評価が高かったが、漢詩の一体の『白氏文集』中の「新楽府」と題する五十編の詩の問題点について、御前で討議する一員に召された。しかし、『白氏文集』巻三、「新楽府」の巻頭の詩の題である七徳の舞の二つを忘れてしまったので、人々が五徳の若輩者と軽蔑したあだ名をつけられたのを、情けない事に思って、学問を捨てて出家していた。しかし、慈鎮和尚(比叡山延暦寺の大僧正慈円)は、一芸ある者を下部の果てまで召し抱えて、面倒を見ておられたので、この信濃入道もお世話なさった。

 この行長入道、平家物語を作って、生仏(伝未詳。盲目の僧)と言う盲人に教えて語らせた。それで、比叡山延暦寺の事をことに立派に書いている。九朗判官(源義経)の事は、詳しく知っていたので書きあげた。蒲冠者(源範頼)の事は、よく知らなかったが、多くの物を書き漏らしている。武士の事や武芸の事は、生仏が、東国の者であったために武士に問い聞いて行長に描かせた。この生仏が生まれつきの発音を、今の琵琶法師が学んでいるのである」。

 ※後鳥羽院の御時、寿永二年(1183)~承久三年(1221)までの間。信濃前司行長は中山幸隆の子(藤原氏の中山中納言の孫)で信濃前司行長は下野前司行長の誤りで、下野守行長かと推測される。この行長であれば九条兼実(慈円の兄)の家司であった。七徳(しちとく)は「春秋左氏伝」による武士の持つ七つの徳で、禁暴:暴力をおさえ、治平:兵を治む(戦をやめ)、保大:国家の大きを保ち、定攻:功を定(功仕立てて〔いさおしたてて〕)、安民:民を安んじ、和衆:万民を和らげ、豊財:財を豊かにする七伝とされる。

 

 『承久記』は、承久三年(1221)の後鳥羽上皇の挙兵によって起こされた承久の乱を記した合戦記で、『保元物語』・『平治物語』・『平家物語』と続く『四部之合戦書』の最後の戦記物語で、鎌倉武士が王朝を崩壊に追い込み、封建体制確立の過程を描いている。異本も多く諸本の成立時期には差があると考えられ、成立時期は定かではないが、最も古い「慈光寺本」は、承久の乱の終結より近い段階で成立したものと推測されている。「慈光寺本」以外後鳥羽上皇に批判的記述が多く、他諸本では北条義時に対しては好意的に記されている。他の戦記物語よりは完成度は低いと見られるが、資料として見た場合に吾妻鏡と相違点が挙げられるなど興味深い。

  

 

(承久記絵巻 後鳥羽院の義時追討宣旨を鎌倉で義時が受け取る。勢田の戦い。後鳥羽院の追放)

 『吾妻鏡』において、後鳥羽院の北条義時の追討宣旨に対して、御家人衆が集まる中、北条政子は、源頼朝の御恩と奉公を訴えて、それを補佐した義時の勲功を演説にまとめた。『吾妻鏡』では、「昔、心を一つにして承るように。これが最後の言葉である。故右代将軍(源頼朝)が朝敵を征伐し、関東を草創して以後、官位と言い、俸禄と言い、その恩は既に山よりも高く、海よりも深い。(その)恩に報いる思いが浅いはずは無かろう。そこに今、逆臣の讒言によって道理に背いた綸旨が下された。名を惜しむ者は速やかに(藤原)秀康・(三浦)胤義らを討ち取り三代にわたる将軍の遺蹟を守るように。ただし院(後鳥羽)に参りたければ今すぐに申し出よ。」と、安達景盛に代読させているが、『承久記』、『梅松論』では政子本人が演説したと記される。また『六代勝事記』においては政子・義時が諸士に伝えている。

  

 また、北条義時と泰時の立場が、『吾妻鏡』では、義時が上洛の消極論者であり、政子が積極論者であった。また、泰時の合議での立場が見られない。『承久記』では、泰時が合議に参加して発言の内容も記されている。その中で義時が出撃論者になり、泰時は迎撃論者的立場を取り、慎重論者であったことが記載により読み取れる。南北朝時代に記された歴史物語の『増鏡』では、合議により上洛を決定した後、直ちに泰時が十八騎で出陣したが、すぐに鎌倉に引き返し、院が兵を率いられた場合の対処を義時に尋ねている。義時は、「君の輿には弓は引けぬ、直ちに鎧を脱いで弓の弦を切って降伏せよ、都から兵だけ送ってくるならば力の限り戦え」と命じた。これが事実かは不明であるが、博打的な要素を持った決断であった事が窺え、また、義時にしてみれば院が戦場に参じる事は無いと確信していたとも考えられる。これらの物語での相違が、それぞれの読者の判断にゆだねられることは非常に楽しい事である。。『太平記』は室町期に記された戦記物語で詳細を記したい。 ―続く―