ひとりぼっちの家...このひとりぼっちの意味を少し考えてみましょう。
”住”は人と主という字で形成され、”居”は古屋、すなわち家の歴史を指します。
この歴史を刻む家を居とし、そこに住まう主である人が健全なる存在としてあること。
居を構えるということは人生の基点となります。
居を構えるという意味において、人と器である家が揃うことを”住”とすれば、
住の延長線上にあるものは、なんといっても幸福なのでしょう。
しかし、この幸福に対する捉え方は千差万別。
自分だけが幸せならいいという考えもあり、人を騙してでも幸せになりたい
と願う人もいることでしょう。
そうしたエゴイズムの世界に満足感を得ている人は、人が本来持つ共生による幸福感と
はほど遠い位置にあります。ですから、感涙に咽ぶこともない興奮度合いの極めて低い
幸福感に満足します。究極の幸福は、艱難辛苦を味わい、そして生きていくというダイナ
ミックな生き方にしか成立しないということは、オリンピック選手や高校球児たちを見て
もわかる通りです。
限られた人生の中で、人間社会に属しているという、この稀なるチャンスを活かすためには
社会に貢献し、皆の幸せを願う行動にのみ実現されるのです。
私の向うに家族があり、
家族の向うに地域があり、
地域の向うに国があり、
国の向うに世界がある。
そして、この宇宙空間にポッカリと浮かぶ地球に住まう”私”を振り返ってみると、
宇宙規模に貢献できるというスケールの大きな幸せを求めることが可能だということ。
ただ漫然と家に住んでも本当の幸せはやってきません。
ただ漫然と高級車を乗り回しても本当の幸せはやってこないのです。
ひとりぼっちの家は、こうした幸せに対する想像力が低下してしまった私たち現代人が
作り続けてきた家なのです。
住まいは、人と家が揃って初めて”家”なのです。立派な家を手に入れても、邪まな思い
を抱く人が住めば凶器にもなります。そんな状態では、もはや風水の理もはたらきません。
人と家が共に健やかであり続けることを重視しなければ、本当にあるべき家作りは実現で
きません。
居を構えるということは本来、神聖なる行いでした。地鎮祭や定礎式といった儀式儀礼が
今も執り行われていることは、それほど大変な行いだということを暗に認識している証拠
でもあります。
家を建てたいとお考えの方には、ちょっと硬すぎるという考えに見えると思いますが、
現代社会で問われることの少ない”幸せ追求の方法”だとご理解ください。
家を建てることから始まる慈愛に満ち溢れた生活のために、是非ご理解いただきたいと
考えております。