ドイツイデオロギーの要諦② | kmhamのブログ

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資本主義的生産様式の現状と資本論を中心にブログに掲載します。
また、ウオーキングの歩数の記録を継続して掲載します。

広松渉著「エンゲルス論」におけるドイツイデオロギーの要諦②
以下、①の結び・・・・・・
(二)(唯物史観の原形)
エンゲルスは、歴史を解明するに当たって、飲み且つ食わねばならぬ
具身の諸個人から出発する。(p401)・・・
エンゲルス:「歴史の第一前提、つまり、”人間が歴史をつくり”うる
ためには・・人間が生きている事ができねばならない事」、ここから
第一の歴史的行為として、衣・食・住の諸々の欲求を満足せしめる
 「生活手段の産出、物質的生活そのものの生産」が確認される。
第二に、この欲求充足の活動、既成のその手段が、新たな欲求を生
 ぜしめること、欲求の質的・量的な拡大再生産。
第三に、他の人間の産出。-夫と妻、親と子の関係、家族。
 ところで、「労働における自分自身の、そして生殖における他人
 の生の、生産は、当初から2重の関係、つまり、一面では自然的
 な他面では社会的な関係である。」(p402)
   ここから、次のことが結論される。
①「一定の生産様式ないし産業段階は、いつでも、協働の一定
 の様式ないしは社会段階と結びついている事、
②人間が手にしうる生産諸力の大きさが社会の状態(=社会体制)
 を規定する事、従って
③”人類の歴史”はいつも産業の歴史と関連づけて研究さるべきだ
 という事」がそれである。
④「そもそものはじめから人間どうしの間には、欲求と生産の様式
 に規定された、唯物論的な聯関」、「次々に新しい形態をとって
 いき、それ故に”歴史”を供するところの聯関」が存在するの
 である。・・・・・・・・・・(以上、①)


「以上の4つの契機、根源的・歴史的な諸関係の4つの側面を
考察した後に、我々は今やはじめて、人間は意識を持っている
ということを見出す。・・・この”精神”は、しかし、そもそもの
はじめから物質に”憑かれる”という呪いがかかっている。」
”精神”は物質に”憑かれている”。とエンゲルスは明言する。
しかし、エンゲルスは物質的自然ではなく、歴史的存在へとオリ
エンティーレンされており、言う所の物質は、直ちに身体の謂い
ではない。エンゲルスは、”憑かれている”物質として、「振動す
る空気の層、音、手短に言えば、言語の形で現れる。」ものを問題
にしている。(言語論)(p403)
言語の成立時点がとりもなおさず意識の成立時点なのであって、
「言語は、実践的な、他人に対しても存在し、それ故に私自身に
対してもはじめて実存するところの、現実的な意識である。
しかも言語たるや、他の人間たちとの交通の欲求から成立する
のである。・・・意識というものはそれ故、そもそものはじめから
社会的な生産物であり、人間が生存する限りいつもそうである。」
(分業論へ)(p403)


意識は、当初、「自覚を伴う本能」「群生意識」といったものにすぎ
ないが、「生産性の上昇、欲求の増大・・につれて発展していく。」
これにも伴って、「元来は生殖行為における分業に他ならなかった
分業が発展していき、・・・”自然生”的な分業になる。」
「分業は、物質的労働と精神的労働との分業が現れた瞬間から、
はじめて現実的な分業になる。・・・この瞬間から、意識が世界
から離陸し、”純粋な理論”神学・哲学・道徳といったものの形成
に進む条件が備わる。・・・尤も、こういう理論が、現存の諸関係
と矛盾に陥るといっても、現存の社会的諸関係が現存の生産力と
の矛盾に陥る事によってのみ、そういう事も可能になるのだが。」
「意識がひとりでに何をしでかそうと構ったことではない。」


(結論)「分業」にともなって、「精神的活動と物質的活動、享受
と労働、が別々の個人に帰属する可能性が、否、現実性が与えら
れるが故に、生産力、社会的状態、意識、この三者が互いに矛盾
に陥ることができるし、陥らざるをえないということ、そして
これら三者が矛盾に陥らない可能性は、分業が再び廃止されると
いう唯一の途しかないということである。」(p404)


(三)(分業論から物象化論へ)
「分業にともなって、同時に配分が、しかも質的にも量的にも
不平等な、労働と生産物の配分が生じ、従って、所有が生ずる。」
「さらには、分業に伴って、個々人ないしは個々の家族の利害と
相互に交通しあっている諸個人全体の共同の利害との間に、矛盾
が生ずる。しかも、この共同利害たるや、単に表象のうちに
”普遍”としてあるのではなく、差し当たってはまず、現実の内
に、分業している諸個人の相互依存として実存するのである。」
(注)エンゲルスは共同利害が国家として自立化されることには
触れていないが、欄外の追補では、それが国家として自立化され
る事、しかもその基礎には、分業によって既に条件付けられて
いる諸階級とその利害が介在する事にふれている。)(p405)


「そして最後に、分業は、人間が自然生的な社会にある限り、
従って、特殊利害と共同利害との分裂が実存する限り、従って
また、活動が自由意志的にではなく自然生的に分掌されている
限り、人間自身の行為が、彼にとって、疎遠な、対抗的な力と
なること、人間がそれを支配するのではなく、それが人間を
隷属させるような力となること」を指摘する。
「社会的活動のこの自己膠着、我々人間自身の産物が、凝固して
我々の制御をはみ出し、我々の予期に齟齬をきたしめ、我々の
目算を狂わせてしまう事象的な力となること、これは旧来の
歴史的展開における主要な契機のひとつである。この社会的な
力、即ち、幾重にも屈折した生産力、つまり様々な諸個人の、
分業に規定された、協働によって成立するところのこの力は、
協働そのものが自由意志的でなく自然生的であるが故に、
諸個人に対して、自分たちの統合された力としては現れず、
疎遠な、自分たちの外部にある力として現れる。諸個人は、
この力の来し方行く末を知らず、それ故、もはや諸個人は
この力を統率することが出来ないどころか、逆に、この力の
方が、人間の意思や動向から独立な、いや、人間の意思や動向
を主宰する、固有の道順を辿る一連の展相と発展段階の継起
を閲歴するのである。」


(エンゲルスの総括)p409
「これまでの全ての歴史段階に存在した生産諸力によって規制
され、そしてこの生産力を規制しかえす交通形態、これが市民
社会であって、・・・単純家族と複合家族、いわゆる部族制を
その前提ならびに基礎としている。・・・この市民社会こそが
全歴史の真のかまどであり舞台である。」と。(p409三、了)