このドラマを観ていて思うのは、この“super woman”は家父長ならぬ家母長なんだと思ったことである。彼女は、この家の「母」なのだ。三人の子供を養って面倒をみているのだ。まぁ、そんな感じなんだろう。なるほど、小池栄子の存在感は、“super woman”の貫禄であり、何やらトップアスリートの立ち居振舞いに見えて来る。流石だと思う。
しかし考える。母と息子達の話であれば、彼女と彼等を繋ぐへその緒の痕跡らしきものがみえないのがなんとも不可思議に思うのである。勿論、息子のような甘え方という例えに過ぎないので有り様もないのであるが、疑似の「へそ」?がみえないので何やら、この人たちは血縁やら結婚という柵にいる人たちの燃えかすが燻らないので、リングのゴングがなってもなんとも感情移入が出来ないのである。今やドラマや映画で血縁やら結婚縁やらに依存しない「家族」以上に「家族」が乱立するご時世である。その昨今にあって、敢えて所謂「家族」ですよ、そのあたふたなんですよ、に向かう「家族」ドラマのこだわりがあまり感じられないのだ。
休業漫画家の夫の脳内に渦巻く漫画とは?理想が高いということらしいが、見えてこない。何故?嘗てこの業界に踏み出して編集者を唸らせた作品とは?そこがないのは、何故?また、フェリーニの『8・1/2』ではないが、彼にも漫画にならなかった漫画があるはずなのだ。彼からみた家族への視線がどのように漫画になるのか?彼の視線が、夫・父・婿を徐々に超えるようになり、家族が役者のように視線を意識するようになりはしないか?そう、期待して私は観ているのだが。…
なんとなく思ったのは、漫画家の夫が最終的に次回作としてその眼を集中させるのは、”super woman”の妻ではないだろうか。そこしか考えられない。そこが最終場所だとしても、漫画以前に形をなさない漫画との確執がもっと観たいと思うのである。
