蝶よ、花よ・・・の憂うつ。
人形じゃない、んだ。
上とか下とかでもなく、比較でもないことで、関係性を好きなように紡ぎたいときに紡ぐこと。
母には感謝している。でも、わたしは何処にでも行ける?行けるはず。行きたい。
道が分からなくなれば、誰かに訊けばいい。
まぁ、夜道で方向見失って誰もすれ違わないとさすがに心細くなる、が。
・・・大丈夫じゃなくても大丈夫だと言ってみること
・・・でも、ホントウはやっぱり大丈夫じゃないと30分話した後に言えること?
・・・「大丈夫」と「大丈夫じゃない」を約10分位の周期で思いつきで繰り返し言えること?
・・・速断しちゃいけない…実際にそうするわけじゃない。
でも、いざとなればそういうやりとりができそうなひとの繋がり?
そんな風に「じたばた」を雄弁に言える可能性を残したい、だけ?
・・・節々に「じたばた」は零れて溢れてるのだ、が。
ごちゃごちゃした感情やら未整理なものを背負って封じながら、“static”(静的)になること
・・・まるで彫像になったようなふりをすること
・・・その彫像は、無口にして雄弁だ・・・だから、人形じゃないのだ。
彫像は、まぁ、何とか口を閉じる。この姿勢、長くやってゆけそうだ。でも、やがてわかる。
うんざりする程長い時間を感じながら、なんで?と思う位に短い時間がやがて来ること、を。
塞ぎこんだり、雄弁というか言葉を失う程おしゃべりになったり、しても、だ。
花は勝手に咲いて勝手に枯れて果てたがるもの?
世話好きの人たちには申し訳ないんだけど。ひとりブルースなんだろうな?
わたしの好きな歌はひとりブルースになる程歌い込むはずだ。
花とは花壇に咲き、花束になるのを生活の生計とか職業にしてるだけではないだろうか?
そう。ひとり咲き、がいい。ひとり咲きは生計ではない。
ひとりブルースの果ての糠床にこそマイライフなのだ。
何年ブルース歌ってる?…わからなくなるくらいがちょうどいい。
・・・このドラマは、"collective"(集団的)でないところで"collective"な人たちが主役である。