書くことは「過去」を刻みつけること?・・・この脳に燻る・・・いや、今も、今も巣作る言葉に出来ない「現前」・・・靄っとしてはいない・・・不思議な位にクリアーにどす黒い記憶・・・いま・ここに未だいること・・・「現前」は生き物だということ?・・・だから、だから・・・その生き物の姿を書きつける・・・そういうこと、だ。

 

大九明子は、「顔」を撮り続ける。怯えた「顔」ではない。疲れた「顔」でもない。

では、どのような「顔」か?何か酷く重いものを背負うひとの「顔」である。嵐に揉まれる難破船?迫る濁流、被る荒波?・・・いや、そうでない・・・静かに、静かに・・・ひとは沈むもの、では?・・・そう、このドラマで繰り返し、繰り返し描かれる水族館のように・・・「過去」は重い・・・それを抱きかかえて、刻む、刻む・・・千秋(板垣 李光人)は街の「欲望工場」で金を稼いでいた・・・しかも、隣の借家の住人、と。・・・重すぎる・・・彼は書きつけた・・・その絵・・・忘れるため?・・・そうじゃない・・・「現前」ですよ、今も・・・脳にさらに、そう刻むために?

 

私は、このドラマにおいて、忍(山口紗弥加)が母親・女の「顔」をどのように「らしい」感じなのかに注目して観ていたのだが、あまりその見方は意味がないことがよく分かった。むしろ、「女でなく母親になんなきゃ」、と酷く重いまでに惑う一種の酸欠状態下にいるひとの「顔」こそが、ドラマの主軸にあると思うのである。

 

買い物帰りの忍の自転車の袋から、蜜柑を横取りして食べる息子のアクションが良かった。このようにこのドラマは、人と人が肩を並べて歩く場面が良い。ここは成瀬巳喜男をイメージするのは速断かもしれないが、何か共通するものを感じる。

また、毎回のことだが、音の使い方が素晴らしく、今回も光っている。例えば、行為を終えた千秋がズボンのベルトを締める音が重い空気にリリカルに響いていた。リリカルな音は重い空気を払拭する為に響くのでもなく、何の救いにもならないのだけど、単にリリカルだな、と漠然と感じるのが大変良いと思ったのである。

 

そういえば、このドラマ、女性の半生記のような長丁場になりそうであり、また千秋との道行を考えると、成瀬巳喜男の『浮雲』なのかしら?と思ってみたりもした。