去年の今日はこれを書いていたのか・・・・・

・・・・・穢れを背負いながら、白無垢の彼岸に到達すること。その眼線に脚色を浸透させながら、物語をなぞること。この脚本家・衛藤凛は腕を相当あげたと思う。新進気鋭の俳優とベテラン女優のイメージチェンジにも成功した。

考えた。古典のオーバーホールとは実はちょっとした工夫から始まるのではないだろうか?

 

・・・刺される者の痛み。刺す者の痛み。七桜(浜辺美波)は双方わかっていた。

かたや重い過去を背負い消え、かたや背負いながら堪える。辛い。・・・だから、女将(観月ありさ)に短刀持ち突進する多喜川(山崎育三郎)の刃を七桜は握りしめた。・・・これがみなの痛み、か・・・これでみな終わり、だ。・・・七桜からのひとびとへの究極の「贈り物」である・・・汚れながら綺麗で白無垢?・・・矛盾だ、有り得ない・・・多喜川は七桜が失った老舗の継承権を「贈り物」にしたかった・・・犯した罪の贖罪?・・・七桜の出生を汚しながら白無垢を着せたかった・・・この屈折はいいと思う・・・愛の任侠に屈折が絡むのは賛成だ。

 

三村晴彦監督・加藤泰脚本の『天城越え』は、年上の女がピンポイントひとりに絞られていた。たが、多岐川は、曖昧な対象としての年上では?造詣する菓子職人・七桜の母+自身の母。対象のコンフュージョンの中で、七桜の母を刺したかった?倒錯・・・七桜の母が好きだが、実母の逝去はあなたのせいだ・・マグマの純情・・・・だから、刺した。・・・でも実際刺したのは、母を奪った男・・・刺された椿の父もまた純愛に憑りつかれていた・・・このドラマが素晴らしいのは、実在する女性・七桜の母のイメージが神聖化されながら、いかようにも貶められる。・・・回想ならではの無力さが逆に「虚」を撃つ。・・・マグマの純情は男の子の区別できない、幾つもの純情 ・・・そこは、脚本家・衛藤の新しさか?・・・私には、そう思えた・・・年上の女はひとりではない・・・散弾銃のような恋情・・・七桜の偽母を渋渋引き受けた割烹の女主人も含めて、だ。

・・・私が脚本家・衛藤凛が一味違うと思ったのはここである・・・これは原作通りなのか?・・・でも、何はともあれ、アナーキーなボーイズエモーションである・・・過激な愛はまずは歓迎、だ。

 

映画やドラマではしばしば「贈り物」が出て来る。情を通いあう印?・・・果物がわりと多い。蜜柑。桃等・・・蜜柑の黄色など雪の中で転がれば絶品だ・・・加藤泰などの任侠映画などでは欠かせないアイテムである・・・このドラマでは数々の御菓子にそれが反映されていた・・・私が、このドラマを楽しく観ていたのはそのような撮影所映画的なフォルムを身に纏っていたからだ・・・大旦那の死・・・椿(横浜流星)は衣装を変える・・・店を出る決意・・・衣装を変えるのも常套だ

 

女将のダイイングメッセージ・・・電話ボックスで話す彼女もいにしえの映画フォルムだ・・・慎ましさと情念が迸る・・・童謡が似合う母親だった、のに・・・老舗の空気と夫の複雑な純愛が彼女を変えた・・・わたしをあげる、椿に・・・童謡を歌うのが似合う母で死にたかった・・・だからこの眼を視力を失いかけた椿に・・・これも究極の「贈り物」だ。

 

・・・愛の任侠?・・・何か人生をかけたノワールには反時代的云々ではなく、清々しさを覚えるのである。清潔な「白」が復讐色を覚えるとき、「穢れ」を辞さない覚悟を屹立し、やがてアクションがそこに集中する。・・・あなたの眼から光が奪われるのは・・・厭だ

 

穢れを怖れぬ復讐色のドラマが、白無垢になる時?・・・すべては終わる。

この重く背負った重石のような過去という「衣装」。それを着替え、新たな服に袖を通す。

菓子作りの「鉄火場」の情熱の赤だけが残った。

・・・「赤」を怖れた彼女は、刃で自身の血の色を確認することで、実は過去という「衣装」を消していたのではないだろうか?

 

穢れを背負いながら、白無垢の彼岸に到達すること。その眼線に脚色を浸透させながら、物語をなぞること。この脚本家・衛藤凛は腕を相当あげたと思う。新進気鋭の俳優とベテラン女優のイメージチェンジにも成功した。

考えた。古典のオーバーホールとは実はちょっとした工夫から始まるのではないだろうか?

 

衛藤凛の次回作が待ち遠しい。