去年の今日はこれを書いていたのか・・・・・

・・・・・・愛の任侠?・・・何か人生をかけたノワールには反時代的云々ではなく、清々しさを覚えるのである。清潔な「白」が復讐色を覚えるとき、「穢れ」を辞さない覚悟を屹立し、やがてアクションがそこに集中する。

 

七桜(浜辺美波)が差し出す菓子。大旦那(佐野史郎)が口にふくむ。

・・・・・・その表情・・・この娘こそ、血筋だ。

お約束ではない、このかけがえのないやり取りこそ、引き継いでいってもらいたい映画の呼吸である。それがこのドラマにはある。

・・・・・・七桜・椿(横浜流星)・女将(観月ありさ)・多喜川(山崎育三郎)・栞(岸井ゆきの)そして大旦那。それぞれの背負う「時間」の重さ。そして隠していることや捏造した嘘が文鎮のような「重石」となり激しい風に飛ばされぬような役割を果たす。それでこそ、映画的なフォルムも物語に嵌め込まれる。七桜と栞が境内の階段ですれ違い手を掴むこと。或いは、多喜川が負傷した七桜を背負う、夜道の穏やかな揺れ。・・・これらは、古典的なフォルムだが、今なおここでなら上手くやれる。絵面に物語が宿っている。そのことが反時代を感じさせない、いま・ここの鼓動を湛えているからに違いない。

 

さて、火事の後遺症で椿は失明の危機を迎える。いつか創った羊羹の菓子・・・闇夜。漆黒の闇・・・それが椿を襲う・・・水面の波紋に映る名月・・・この繊細さは何かに瀕した芸術であろうか?・・・傑作は「物語」を背負う。

七桜は光月庵女将と爛れた関係の議員に近づき、揺さぶりを掛ける。

彼女は、何故「光月庵」の当主になりたいのか?・・・母の仇?菓子への情熱?・・・どちらもだ。

・・・愛の任侠?・・・何か人生をかけたノワールには反時代的云々ではなく、清々しさを覚えるのである。清潔な「白」が復讐色を覚えるとき、「穢れ」を辞さない覚悟を屹立し、やがてアクションがそこに集中する。椿に愛想つかしの啖呵?復讐の女だけの顔を見せつけ、侮蔑で切りつけること・・・でも、それは「ふり」だ・・・全部「ふり」だ・・・幼い日を記憶するわたしには既にその後の日々の記憶が盛られているから・・・あなたの眼から光が奪われるのは心配だ・・・厭だ。

 

物語の傍観者のような多喜川が膨らみをドラマにもたらす。傍観者のようで何より物語を知っている?いや、深い興味を持っている。それは間違いない。『ガス燈』のジョセフ・コットンの演じた警察官のようでは?幼き日にみた七桜の母(中村ゆり)の記憶を四六時中抱きながら、いま・ここに居る七桜の傍に居る。考えてみた。物語では傍観者こそ当事者であり、渦の外にいるかのようにみえても、最も脳裏に様々な喜怒哀楽が渦巻いているのではないだろうか。