去年の7月は沢山書いていたのだな・・・『血は渇いている』(監督:吉田喜重)か
・・・佐田啓二が冒頭洗面所の鏡にひとり顔を映して緊張している
・・・『翔んだカップル』(監督:相米慎二)の冒頭の、鶴見慎吾を思い出した。
・・・相米慎二ならではのダンディと吉田喜重のそれは似ていなくはないのでは?
吉田喜重の『血は渇いている』を観て、確か90年だと思うが、東京ドームで観た、デビッドボウイのSound&Visionツアーを思い出した。ステージ右側の巨大スクリーンに過去のボウイの姿が映され、その下で小さな実物の彼が、潰されそうな小人のようにOH NO !と避けながら歌うという仕掛けである。まぁ、偶像化した過去の自身に押し潰されるのを揶揄しているわけだ。
『血は渇いている』は、1960年の作品である。広告やメディアの氾濫が、ひとりの没個性の男・木口(佐田啓二)をスターに祭り上げるストーリーである。・・・・思い詰めた表情の彼が鏡をみながら、握りしめる拳銃。場面変わると、あるメーカーの屋上。社長が社員の首切りを通告している。そこに、木口の命がけの直訴。・・・この命に換えて、みんなを助けてくれ!銃声。・・・幸い、怪我で済んだ彼。やがて、この男は、世間に大きく報道され、注目されることになる。・・・・生命保険会社宣伝部の野中ユキ(芳村真理)は、木口のスター性に目をつけ、CMタレントに抜擢する。・・・本社ビルに掲げれる巨大写真、こめかみに拳銃のお決まりポーズ。渋々応じた木口であったが、その口下手な話し方は、大衆にアピールして、保険会社の売り上げを鰻登りにする。してやったり、のユキ。その彼女の傍らに「いつか引きずりおろしてやる」と、苦虫つぶす週刊誌記者・原田(三上真一郎)。・・・ユキは、次第に調子ずく木口に、「あなたは所詮は私たちの作りものよ。」と説くものの、木口は益々世間の賞賛を受ける。記者・原田のえげつない謀略にも、テロリストにもとりあえず動揺しない。喝采、また喝采。・・・偶像は、巨大化した。ユキは、自身が造形した偶像に押し潰される、苦渋にまみれた夜に封じられる。夜中、聞こえる音は、建設、破壊、どっち?原田が、夢の島?の廃棄物の中で逃げ惑いながら、風景に落ちる。俯瞰の「記録」。出口なき、夜の帳。私たちは、何処にいる。”where are we?”
・・・・・・・・・うーん、ふと考える、私。木口は、太平洋戦争の旧い価値観の塊、いや、死を賭けて何かを宣言するシアトリカルなアクション表現者。まぁ、軍人パフォーマンス、か。忌み嫌いながらも、大衆は、それを決して嫌いではない。いや、むしろ好きである。サイレントマジョリティは、そのポーズを格好いいと本能的に感じる習性がある。思い出したくない権力者と時代だったと感じる、その一方で。・・・・・だが、木口にも地を這う日が来る。夜の罠、無防備なスターを躓かせる。・・・偶像の巨大写真を見上げる。おれは、ニセモノじゃない、ホンモノだ。拳銃で再度、命賭けパフォーマンス、存在価値の証明?偶像写真、ビルから落ちる。カメラを構える、原田。その「記録」には価値があるのか?木口の無謀な、限りなく旧日本的なアクションに、ノーコメントな、だけだ。群衆に埋没する、原田とユキ。・・・退屈な光景だが「記録」するのは、むしろそちらの方ではないだろうか?
