青森県津軽の女子高生。母を亡くした彼女は父・祖母と暮らしながらも、悲しみを共有する言葉を持てないことや、それを表現出来ないことへの自身の内向的な性格そのものにも苛立ちを覚えている。地味な性格ながらメイドカフェのコスチームに憧れ実職とし、津軽三味線の若き達人?の摩訶不思議なキャラでもある。そのぐちゃぐちゃながら清い喜怒哀楽は、エモい?感情の発動である。果たして、彼女の居場所は?

 

主人公いとが身を投げ出し横たえる場面がある。性別判別やや不明のようにもみえ、よくみりゃ女性で、まぁ彼女だなとわかる場面があるのだ。まぁ闇に等しい暗やみだったりするわけで、またその投げ出し方は、ジャガイモか何か入ったズタ袋のようでもある。何か大きな袋がある、あっよくみりゃ人間だ、という感じである。大きさとしてただそこに彼女は「ある」。帽子をかぶり長い髪を隠し、岩肌を這いながら、雲海の切れ端の空に遠く近づきながら、山の頂点をめざす彼女。みごとな黒髪を帽子に封じ、前を進む父にただただつき従う性別保留の子になるのだ。まぁ、ちゃんとみればすぐに彼女だな、とわかるのだ、が。西部劇?ウエスタン。流れ矢の襲撃は無いけれど、頑張って岩肌を掴んで生きていくんだぞ、の父と子の以心伝心である。登山場面へのいきなりの転換?『北北西に進路を取れ』の締めくくりの逆、だ。画面の変化はやや唐突ではある。ひとつ前の場面は可愛いメイド服の三味線ライブなのに?いや、このゴツゴツ感は決して強引ではない。何故か?ライブ場面の彼女のポーズをみればいい。彼女は大きく足を開き、みてくれのはしたなさを忘れる程興が乗っていた、のでは?女?を忘れる程の心酔。弦の一部になること。”I am音楽.”、だ。自分の言葉を持てない苛立ち。母を失くした悲しみを共有しながらも、そこに距離を取りながらそこにいること。歴史を知った。辛い歴史がこの土に積もっていた、んだ。・・・青森の街・・・空襲避難をやめ戻ったら空爆。沢山の人が亡くなったんだな、この土の上で。なんだか切ないな。母を失くした今のわたしは干からびたようだが、にわかに溶け出した悲しみを眼に溜めながらこの土の上を歩く。人、みな悲しみの地層に気づき、自身のそれも重ねる。伝えなければならないことと私のそれは別なのだけど、そこに刺してしまう日もあるんだろうな?彼女はそう思ったか?・・・メイド喫茶は分岐点?非日常の毎日もいつかくたびれた日常になる。ここから落ちくたびれるか?床を蹴って星にてをさしのべるか?・・・眼で覚えろ?何かに慣れて取っ掛かりをみつけ居場所にすること。紛い物もホンモノも気持ち次第だ。わたしは何が売りなのか?資本主義は晩年?でも、今さら止めるわけにはいかない。勉強が出来る?出来ない?特技は何?虚しさと干からびた悲しみを抱えながら、何をどう変えて何になるか?わたしは何を売りますか?言葉ではない。それは消耗品だから。言うだけなら何でも言える。だってタダだから。わたしはもう一本の弦。わたしにか聞こえない音、だんだん近くなる。わたしは音楽の一部。この音には値打ちがある。干からびた悲しみを溶かしながらわたしもそれになること?この価値は欠け値なし、だ。わたしがわたしのために売って買うのだから間違いない。

 

主人公の名前は、相馬いと。・・・映画観ている間ずっと思ってたことだが、私には「相馬いと」が「相米と(そうまいと)」に聞えた。彼女の気持ちが満ちて来て、友達の家の小部屋をグルグル回りながら、三味線を弾きまわるシーンの長廻しに感動した。横浜聡子は、様々な映画を作る。・・・ゴダールのような肉体のしなやかさと運動の滑走を空間の突破口を求めるかのように希求する。或いは、清順のような砂漠や山々を感じさせることもある。・・・そして、相米の「おめでとうございます!」祝福のアクションである。・・・この世に生まれて来たこと・・・それだけで、おめでとうで、ありがとう・・・なのだ。

 

父は三味線ライブ場面には居なかった。続く、山の岩肌場面では、彼女を先導する。・・・これは彼女の観念?・・・ロマネスク

ふたりして家出したあの日・・・右と左に行く先は別れた・・・父は山に行くと言ってた・・・どんな風だったのだろう?

山頂・・・下界がちっぽけにみえた・・・眼下に手を振る・・・夕闇の平地・・・母が手を振ってた、ような?

 

・・・おめでとうございます!・・・相米映画のような「成長」への賛美だと私は思った。