・・・・・・怪しげな神秘主義に憑りつかれ、水を売り歩く商法に騙されるコント?・・・・重いな、と思った・・コントになるネタにしては、重すぎる、のではと思った、のだが。・・・その重さには、切れない絆への思いがあった。・・・春斗(菅田将暉)には、兄(毎熊克哉)が居る。このネタ、実の兄のことだ。実話、だ。妻子に逃げられ、全てを失い、引き籠りになった、兄。笑いのネタって、日記なんだな、と思った。そう、思ったこと感じたことを書き続けること。トリュフォーの映画等を観ると、これってこの人の本当ばかりでは?と人の日記を覗きみするような気持ちになる。映画の場合には、覗き見だけど、テレビでみるお笑いコントは「全開」では?の、みんなあるある、の同期化ではないのかと、わりと考えがちの私だったのだが、こちらの方もどうやら映画監督等の内省的な志向に近いのでは?と第3回をみて思ってしまった。・・・重さは、軽さにはならない・・・言葉にならない程、どうしていいのか分からないことは、笑いには出来ない・・・自虐なら出来なくはない・・・何故なら、傷つける心身が鏡の前にある・・・兄のことは、違う・・・鏡に映らない自身のこと・・・そして・・・よりにもよって、そのコントに、里穂子(有村架純)がハマるとは?・・・そのネタが抱える闇には言及出来ない・・・彼女も、重さを抱えていたから。
瞬太(神木隆之介)が、姉妹の部屋に上がり込み、里穂子の妹・つむぎ(古川琴音)とたこ焼きを作って食べていると、里穂子が帰って来てその寛ぎぶりに驚くも、春斗・潤平(仲野太賀)と次々に、人数多い方が楽しいからとばかり、やって来る。そこの顛末がいい。潤平のデリカシー希薄ながらの繊細さがスペクタクルを呼び、心を打つ。・・・足が臭いから足を洗う・・・いえ、お風呂場みられる方が恥ずかしいですから・・・結局、足を洗って、タオルで拭く。やがて、始まる団欒に遠い、里穂子の身の上話・・・妹・つむぎは、かつてボロ雑巾のようになった姉を部屋の鍵を開けて救出した・・・何故、姉はそうなったのか・・・理由は訊かない。訊けなかった。・・・初めて、全部話す、姉・・・頑張るという名の全開だった、わたし・・・それって、つけ込まれること・・・人と人の間に入ることへの不信・・・恐怖・・・ボロボロのボロ雑巾だ・・・部屋に来てくれた、妹・・・彼女が来なければ?カミングアウト、それは「全開」ではない。心を許容範囲で開くことだ。このドラマは、アンチ全開だ。全開の「笑い」など、何処にもない。そのように語っているかのようだ。捨てられない重さから来る笑い?それを、ソウルと呼ぶのには・・・ちょっと時間が要る。待ってほしい。里穂子は、許容範囲で心を開いた。・・・お疲れ様、か?・・・潤平(仲野太賀)が取ったアクションがいい・・・彼の足を拭いた、そのタオル・・・彼女に・・・涙、を拭く・・・無味・無臭だから、大丈夫です。ちょっと笑う。いや、やけに笑った。何故だろう?これは、この空気がなした偶々の顛末である。ボロボロのボロ雑巾だった内省的な志向を外の世界に解放仕掛けた、アクションである。ふと考える。そもそも、人間はボロ雑巾ではない。生命力の再生がある。洗濯、漂白、なんでもいい。ボロ雑巾から、「足を洗う」?うーん。これは、モンタージュのようにも思える。これは、そもそも潤平の足が臭いが、なければ始まらない顛末である。潤平の足を拭いたタオルが、里穂子の心に寄り添う顛末に非凡な効果をもたらし、このふたつの血を分けた絆、兄弟と姉妹の不可避の共通点を浮かび上がらせる。そこには、闇のような水底を蹴って、浮上するようなアクションを予感させるのである。気がつけば、あれよあれよとこんがらかった紐が解けることがある。・・・奇跡のように・・・縺れるのは人間関係だが・・・それを解くのも人間関係、である。
