・・・いなくなってしまった、あなたが、まだそこにいること?・・・いや、「そこにいる」ということが「あり」続けること?・・・あなたの「不在」への想いの深さ・・・それが、幻視を産んだ?・・・いや、そうではない・・・あなたの「実在」の重さがわたしたちのあたまのキャパを越えるくらいに大きすぎるから・・・だから、「あなたがそこにいる」ということがあり続ける・・・だから、これは幻視ではない。

・・・⚽の話で恐縮だが・・ルカク・・・インテルとベルギー代表で前線でボールを呼びこみ続けるその姿勢に・・・ポストなんとか云々関係なく・・・あなたが、こっちの鬱憤解消になってくれないか?・・🥅に送り込んでくれ・・・そう、思う日もある・・・いや、かなりある・・・結果に悪戦苦闘しながらも・・・やっぱり、やってくれた・・・その難題に・・・能書き無しに・・・コミットした、あなた・・・大好き、だから・・・あなたのその、大きさ・・・いや、デカさ。

 

「離見の見」?・・・もうひとりの自分があなたをみるようにみること?・・・主観を客観に変えること・・・それはまずひとを受け入れること・・・まずは、さくらの言ったことに従うこと・・・大勢の家族で🏠を満たし・・・微笑むこと・・・そこで笑うあなたを・・・殺気のあなたはどう思う・・・ホントの自分はどっちだ?・・・鬼は外、福は内とはいかない、が・・・福が鬼を抱き締めることは出来る・・・鬼が笑った・・・微笑ん、だ。・・・🏠に還って卒倒した、寿一・・・在宅医療・・・もう終わりか・・・プロレスと能稽古の兼業・・・知ってる、よ・・・家族は味方だった・・・能の🏠なのに・・・リングの一気呵成の声、声・・・父を想う家族・・・その思いが、医療機器の数値を上げる・・・2ギガの数値化だけでなく・・・家族のアトモスフィアにも・・・数値化の波が?・・・歌舞伎でも、なく・・・狂言でもなく・・・能に曖昧に混濁する・・・生活を意識した、美学を求めた?・・・そう、生活に立つということ・・・重量感を生活活劇の礎にすること?・・・だから、プロレスと拮抗、したのでは?・・・室町時代を背負った、生活活劇。

仇敵とのプロレス対決・・・リングに向かう寿一・・・レスラー最後の舞台?・・・その彼を・・・もうひとりの能装束の彼がみている・・・これが、「離見の見」か・・・それって、ドッペルゲンガーの視線を背中で受け止めること?

 

他の脚本家の映画のことで恐縮ある。かつて『宇宙の法則』(監督:井筒和幸)という映画があり、やはり主人公は何の前触れもなく、最後に急死する。残された家族は何となく纏まりをみせ、その彼女もまた急逝した彼氏の内面を未だよく理解してなかったことを悟る。この映画を観た時に私は初めて「生活活劇」という言葉があたまによぎった。ひととひととの窮地に空転しながらも関わり、やがてその纏まりに身を捧げたように息を引き取るということである。このドラマの寿一に同じ匂いを感じていた。そう、思ってずっと観ていた。空転を抱えながら倒れたといっても犬死ではない、また身を捧げたといっても勿論必要な死でもはない。でも、何かみんなの為に犠牲になってしまったのかな?と思えてしまうことが酷く切ない。思うべきことではないことにあたまが一杯になることがわたしたちにはある。例えば、である。・・・寿一(長瀬智也)のその身体の大きさをデカいと必ずしも誉め言葉としては微妙な表現で・・・でも、信愛をこめてあなたを想うこと・・・愛されキャラという表現に落ち着くか?・・・でも落ち着いてもすぐに離陸する・・・あなたをひとつの言葉で括ることは出来ない・・・出来た瞬間・・・あなたはわたしから本当に消えてしまうから。デカいというちょっと失礼な表現。大きさ、では信愛は伝えにくい。デカいといった時に、わたしたちは漠然としたその大きさの圧倒をイメージする。そこである。わたしたちは、大きさ、に圧倒されたいのだ。そこに夢をみる。だから、「不在」を無視するかのように、「実在」が大胆に闊歩する。あなたのデカさをさくら(戸田恵梨香)は、スカイツリーに例えた。ちなみに、あなた亡き後、彼女は永山絢斗君のことをちょうどいい、と言ってた。それって、大きさのこと、だな。あなたについて、別に634mの高さと表現したわけではないが、その大きさがデカさに姿を変え、色々な数値の波も加わり出す。あたまのなかのプロレスと伝統芸以外の残り2ギガだよ、に始まり、再集合した家族や門弟のひとたちの多くの数量へと続き、さてさて、父・寿三郎(西田敏行)の心拍数を計る医療機器の数値の増減へとなることで、数量や数値といった数の表現が乱打される。その究極になるのが、「離見の見」により分裂した寿一、プロレスラーの彼と、能役者の彼とに2個の数になる。主観→客観の昇華を意識したこの言葉も、ドッペルゲンガーの視線に転化し、彼の背を刺すことになる。正面、背中、こちらも2個の数に相違ない。わたしたちは、寿三郎の「寿一何処に行った?」の楽屋での言葉への家族たちの戸惑いから、すでに彼はこの世にいないことを知る。しかし、である。この世あの世のふたつの分解はない。そんなことはあるはずはない。でも、ここは譲れない。だから、ふたつはひとつ繋がりである。だから、「不在」と「実在」という分裂もなく、両者は限りなくひとつである。ここが素晴らしい。なるほど、これは幻視ではない。寿三郎は、「そこにいる」ということが「ある」のを、ただ視ているのである。そして、それは心の眼でもない。紛れもなく、彼の両目がそれをガン見しているのだ。「隅田川」のストーリーとこのドラマの親子のそれもきれいにひとつに載せられる。この寿三郎に起きたことは、さくらにも起きる。寿一の墓参に出掛けたさくらは、寿一に身体を吊上げられ、彼をその眼でみるだけでなく、そのデカさを体感する。ここである。さくらの心の中の寿一の「不在」の大きさが幻視を呼んだのではない。心の眼でもない。スカイツリーの大きさというデカさ、すぐにでも眼に浮かぶ、その大きさやら高さの「実在」があなたをそこにずっとわたしと一緒にいさせるのである。

 

思想が存在ではなく、「存在」が「思想」になること?そんな表現、何処かで、見たことある。

・・・それは、アクション映画のようなこと・・・なかんずく、アメリカ映画。

寿一の生き方は見事だった。

また、それを体現した、長瀬智也も。

感動した。