・・・・・パッチがラオ博士だった、とは!

・・・・・薄気味悪いものが色彩を彩り、荒んだ独眼が知性の顔へと変わる?

この寡黙な表情の変化は、また、映画の転調でもある。

 

砂漠に打ち揚げられた廃船。そこに隠されていたフライング・マシン。

でも、集積回路の故障。インダストリアに行かねば?

わざわざ、何故、敵の拠点へ?・・・この迂回は、通常は、解せない。

更に言えば、砂漠に捕縛された、ダイス船長を苦々しく思いながら、一行は彼を受け入れる。これもまた、ストーリー展開に含みを持たせるだけの伏線か?・・・モンスリー達が乗るファルコの追撃!コナンの飛行艇に喰らいつく全身表情。宮崎アニメの独壇場である。墜落!

・・・流石。ふと見る。砂漠に走る、断層の亀裂?「予兆」を理解できない、モンスリーたち。

「・・・・・わからんのか?」、とラオ博士。「・・・あなたの意見が聞きたい」、とモンスリー。・・・・・「予兆」とは悪い意味だけではない。良い意味で、例えば、和解の「予兆」もある。

大地を知り、海を知り、空を知り、そして未来への知恵を知ること。世代間で知識が伝達出来れば?分かり合えれば?この追撃と応戦は、和解への伏線である。まぁ、ダイス船長が、モンスリーに博士たちの行き先をポロっと話してしまうのもまた、その後のストーリー展開をあっさりと予測させてしまうことでは、あるのだが。

幹部・レプカの反撃、モンスリーから得た情報で、博士たちの行き先を知ることになり、その場所の深い地下扉を閉め、幽閉する。ピンチ!博士とラナに迫る危機。

 

わざわざ、敵の拠点へ出向き幽閉された?

見せ場作りもまた、活劇には割り切った選択も大切な何か、ではある。

これをぬけぬけとやってのける宮崎アニメは、なかなか太々しい程、活劇性を希求している。

何故なら、見せ場なくして、活劇が孕む要素はないのではないだろうか?

*「迂回」→「予兆」→「反撃」→「危機」

段階を分けながら、その土台作りを怠らないのが、素晴らしい。

毎回、そこに向けてセンシティブであること。それなくして、連続ドラマの興味は続かないのだ。