第66回サンセバスチャン国際映画祭の最優秀新人監督賞を22歳の若さで獲得した気鋭の監督の作品なので、大いに期待して観た。子供の眼線で、取り巻く世界との違和感を表出しているのが、とても好感が持てた。違和感には年齢はないのである。その勇気が、映画の芯になっている。
でも、それだけでない。手品・軽業といったチャップリン・フェリーニ的な実VS虚の戯れの中で、是非このまま映画を撮り続けて下さいと思うのが特筆すべきことである。
・・・・・・祖父が亡くなり、少年ユラは、父母と共に祖母の住む雪の街に引っ越して来る。眼線に広がる、雪、雪。ユラが転校した学校はキリスト教を学童に奨励し、学校の中に教会すら設けられ、子供たちはそこで礼拝と祈りを日常にしていた。信仰って何?といった表情のユラの前に、現れるキリスト。これが可笑しい。小さな妖精というか、不思議な生き物のようでもあり、紙相撲を闘ったり、とてもユーモラスである。信仰への違和感と、寂しさ故の心象風景かもしれないが、このように奇妙奇天烈なキリストはみたことがない。・・・・・・私はこの監督の時間の貯め方が素晴らしいと思った。これはなかなかいいな、と思った。映画は時として、ふりをする、保留するなどの、溜めを作る。「溜め」が「貯め」にならないかもしれない?・・・やがて、ユラにはカズマというサッカーが上手い少年と友達になり、彼の母もまた、よく笑う陽気な女性であり、一緒に少年たちと別荘に出掛けたりもする。雪の中で遊ぶ子供たち。この様子は、それまでの引き絵から一転して、バカンスの画像というか映像集のようになる。映画が映像に身を任す?そのようなこともある。冗長ではある。だが、映画は時としてその冗長さを許容することがあるのである。・・・やがて訪れる友の死。花を机に手向けるユラが居る教室。それが斜めに歪んでいるのが、ユラの違和感を表出しているのではないだろうか?神も仏もない、と子供眼線で心の叫びが突き出されるのだ。ユラは、弔辞の壇上で現れた、キリストを潰す。そのアクションが素晴らしい。・・・・・・呆けた祖父がよくやっていた障子の指開け。ユラもやってみる。気持ち良く不謹慎を試みる。すると、冗長な映像ではなく、線形計画されたような俯瞰が展開して、サッカーボールを蹴る少年たちが雪の校庭の中でうごめき、彼ら自体もその風景の一部として映画に身を任している。・・・障子の穴の向こうは、記憶の世界であった。生涯忘れえない悔しいくらい切ない想い出?だからこそ、心を込めて映像→映画へと進化させなければならない。そして、飛べない鶏が高く空を飛ぶ?例えば、そのようなことも彼には可能ではないのか?奥山大史の頭には、幾つもの映画が宿っているのではないだろうか?
