平和の常識や通念を見るなら、私達が持っている「実感」としての平和も、一度はよく見ておかなければなりません。先に見たように、1945年8月15日に実感された(取り戻した)平和の実感が代表でしょう。「戦争ではないこと」というマズい常識を強めてしまうものでもあるため、そこで一通りその正体は見てみました。失っていた平和を取り戻した実感、実は喪失の度合が小さくなっただけであった実感……と見定めたものです。


 しかし、あの実感の他に、もう一つあります。それは、今失ってしまっている平和、本当は完全には得られていない平和、一日も早く得たい全世界的・全人類的な完全恒久平和……希求対象としての平和です。これは今・現に、私達が、そう思ってみれば実感する現実の平和、でしょう。決して理クツとしての平和(概念)などではなく、レッキとした私達の実際感覚・感得ブツとしての平和、ではないでしょうか。


 常識・通念としての平和というなら、実はコレの方がとても重要で、それをよく見てみることこそは、平和にとっても私達にとっても、そして9条にとっても、実り多いものであっています。遥か遠い?ロシアや中国やアメリカにさえ、在ってしまっては私達に決して平和を与えない水爆搭載ICBMや、全人類を数回殺せる程の化学兵器や細菌兵器の貯蔵……イヤですねェ。でも、そういうモノの実在で、どうにも失われてしまう平和とは、一体本当のところ何なのか。この、今、誰もが実感もしている、失われっ放しの平和こそは、常識や通念としての平和を見るとき、実は最も注目しなければならないものであっています。何といっても、この失いっぱなしの大切な価値は、どうやったら得られるのか、取り戻せるのか、は、現代世界の全ての人間にとって、最も切実な深刻な問題で、本当はあるからです。私達の憲法の第9条は、ここのところに必要不可欠な二つの方法の内の一つを指摘することで、全世界の心ある人々から希望の星として注目されている事実も知らなければならないようです。9条はどうして正しいのかという問題の立て方が、決して見落せない一つの現実と、こうして密接もして行きます。この現在の実感としての平和は、平和がトコトンのところ完全に私達一人々々・各人限りのモノであっていることや、それは各人のアタマで知り。知覚し。実感できるかどうかのモノであることを、どうにもハッキリ見せるところが、とても大切なポイントでもあります。


 「実感」とはどういうことかも、私達人間のアタマのはたらきが分ってみると、簡単に見過すことはできない問題であっています。あとで説明しますが、感覚や感情に使われる「感」が使われても、「実感」はどうにも感覚的なアタマのはたらきの謂いとらえてはなくて、「知(る)」というはたらきの、その強さを含めた云い方であっています。1945年(昭和20年)8月15日に、終戦と云いクルめた敗戦の時に「実感」された平和も、今・現在全ての人が考えてみると失いっ放しのモノとして「実感」する平和も、確かに「実感」されますが、それは概念の形成であるアタマのはたらき「知る」の、強い・確固たる「知る」の一型・一面であり、平和とその実状の概念の明確な形成をいったもの、となります。実感するのは、私達一人々々の問題に尽きる、平和は実は私達一人々々にとつての切実な問題であり、価値でもあっている……そこへ是非見至っておきたい常識です。


 実感的平和なら、半世紀前の強烈だが実は特殊な実感よりも、今。現在のソレをシカと見定めて、平和って本当のところ私達一人々々にとっての何なのか、そういうモノがどうして失いつ放しになってしまっているかを考える材料に……強引でしょうか。しかし、これは問題の実態そのものです。


 どうやら何とか?どうにも、平和とは何か、平和って何だからこんなヤヤコしい問題になってしまっているのかを見てみずにはおけなくなったようですから、そうしましょう。