デスペラード・ミズタの発達障害ラジオパーソナリティー奮闘記

デスペラード・ミズタの発達障害ラジオパーソナリティー奮闘記

発達障害(ADHD)持ちで精神障がい者三級の手帳を持っています。仕事は交通誘導警備員として働いています。発達障害があっても一般社会で生きて行けることを証明していくためにブログ発信しています!よろしくお願いいたしますm(__)m

今日は前回のブログに引き続き、僕の幼少期〜発達障害(ADHD)が判明するまでの症状とどうやって社会復帰できたのか?を書いていきたいと思う。社会復帰の過程は次回のブログで書こうと思う。

前回も書いた一般的にはキレやすい、衝動的な行動に出る、団体行動ができない・・などだが間違ってはいないものの、発達障害持っている人の症状は十人十色だ。

僕の場合は幼少期はトイレが大のところでないと怖くてできなかった、自宅の団地のエレベーターに怖くて乗れなかった、を書いたがキレやすいというのがボクシング始めるまであった。

なので学校でもろくに運動もしてないため、勝てもしないのにキレてケンカふっかけてしまったり、学校の窓ガラス叩き割ったりとか今考えたらむちゃくちゃだった。

29の時に一度、結婚したが今だから言える話しをさらけ出す。

夫婦喧嘩はどこの家庭でもあるかと思うが、僕の場合は制御がきかず前の嫁さんに手をあげてしまったことが何度かある。

前にケンカして和解して済んだことをいきなり掘り返して前の嫁さんにケンカふっかけたりとかむちゃくちゃだった。

今考えたら前の嫁さんが去っていったのは当たり前の話しなのだが、その当時の僕はそこがわかってなくて3LDKの部屋にいきなり1人になってしまったこともあり、仕事もうまくいかなくなって約5年間、極度のうつ病を併発してしまった。

ただ寝込んでるだけならまだ良かったのだが当時流行っていたSNSのモバゲーに自殺ほのめかすことを何度も投稿してモバゲー出禁になってしまった。

結果論、それでFacebookやるようになったので今となれば結果オーライだったのだが。

自殺未遂とかも何度か本当にやろうとして警察出頭してきて取り押さえられたことも何度かある。

一度だけ本当に実行しようとしてベランダでネクタイ引っ掛けて実行したものの、偶然にもたまたま使ったネクタイが亡くなったオヤジのものでボロボロだったのでネクタイがちぎれて一命を取り留めたことがある。

その時に思った。亡くなった両親が「お前はまだこっちに来るな!」と言われてるのだと思った。

そんな状況なので仕事もうまくいくはずもなく50は職を転々として最後にクビになった工場で仲良くなった方の前職が警備員で話し聞いたら警備の仕事もいいな!と思ってこれでダメなら障がい者枠で探そうと思ったら警備の仕事が自分にはまった。

警備の仕事でも何やかんやあったものの、今年で警備業に入って10年になった。

ちょっと話しが長くなりそうなので第三弾を次のブログで書こうと思う。

今回のブログでの結論は「落ちるとこまで落ちたらあとは上がるしかない!」ということを今になって学んだ。