15年前の「1月17日」....

もう、あれから15年が経ったんだね。

俺は当時、大阪に住んでいました。
地震発生時は「5:46」だったけど。
完全に昼夜逆転の生活をしていた俺は、まだ起きていました。

友達の家で、朝まで話していて。
珈琲を飲むために、お湯を沸かしている最中でした。

突然、物凄い衝撃に襲われ。
座っているのに、ひっくり返ってしまった。
棚から色んなものは落ちるし。
沸かしてるヤカンは引っくり返るし。
マンションの壁にヒビが入るは。
ドアは開かないは。

本当にやばい地震が来たときは、本能が感じますね。
恐怖と共に、半分、諦めそうになってしまう。
でも、震源地の神戸や淡路島は、この比ではなかったのだろう。

揺れが落ち着いた段階で。
これは「尋常ではない事が起こったんだ」と。
容易に想像がつきました。

状況を把握しようにも、大停電。
車のラジオで情報を得ることに。

すぐに、近所に住む友人たちを訪ねる。
みんな無事だったが、表情はこわばっていた。

まもなくして。テレビも復旧。
今でこそ、映画の中で、CG処理されているけど。
実際の街で、こんな事が起きているのを飲み込めなかった。

翌日。
神戸や、西宮、尼崎、宝塚に住む友人たちが心配で。
車で、そっち方面に行ってみることにした。

テレビの情報でわかっていたけど。
走り始めてすぐに、車は通れなくなった。
高速道路の倒壊。家屋の倒壊。
阪神間の大動脈の43号線には、大きな段差が出来てしまい。
到底、車が走れる状況ではなかったのです。
すぐ近くで、到るところで火事は起き。
破裂した水道管からは水が吹き出し。
ガス臭くもあった。


直後は。
阪神間の交通が麻痺していて。
大阪・神戸間を歩いて行帰していたのを覚えています。
距離にして、20キロぐらいでしょうか。

「被災難民」て言葉も、これ以降だと思います。

俺の友人や、その家族たち。
たまたま命を落とした人は居なかったのですが。
そのまた友人て範囲まで行くと、亡くなられた方も居ます。
亡くならないまでも、家が倒れてしまった友人は多く。

若かりし日に。
友達と遊び、デートをし、買い物をし。
海を眺め、六甲山に登り、ライブをし...

大好きで、美しい神戸の街の。
あまりに変わり果てた姿に。
目の当たりにした、地獄のような惨状に。
大きくショックを受けました。


今もなお。
仮設住宅を出て、ひとりで暮らして居られる。
いわゆる「独居老人」の方々の、ご苦労を耳にします。
心の傷。そして、物理的な問題も多々あると聞きます。
街を再建する際の、区画問題もあったり...

あまりに大きな爪痕は。
これからもずっと残り続けるのだと思います。

よく「教訓を生かし」と言う言葉を耳にしますが。
この大きすぎる教訓を、俺らレベルで、どう生かせばいいのか...

俺がやっている事と言えば。
水を用意しておいたり(さっき、チェックしたら期限切れになってた)
懐中電灯に電池を入れておいたり。
棚の下に、耐震すべり止めを挟んだり。

あと。
アウトドアで、お湯を沸かす時に使用する。
「アルコールストーブ」は、非常時に役立つでしょう。


今も続く爪痕と、防災への意識。
肝に銘じて、毎日を過ごしたいと思っています。