「楽譜に忠実」って何? | 最近の音楽鑑賞など

最近の音楽鑑賞など

本業関係および趣味について書きます(以前から変更しました)。

「新即物主義 Neue Sachlichkeit」という言葉は私の若いころよく聞かれたものであり、楽譜に忠実に演奏しなさい、と言われることは多かった。

しかし、それだと演奏はみな同じようにならないだろうかという疑問はある。当時は「そう思っていても個性は出るんだよ」などと言われたような気もするが、作曲の可能性が昔のそれとは違っている現在、「演奏」がみな同じ方向を目指したらどうなってしまうのだろうか、と思ったものである。

現在、定年退職後の生活を楽しみながらその辺について再度考え直している。やはり演奏は「個性」がないとつまらないのではないだろうか。

ところで、ついこの間、ある若手のピアノ演奏を聴いた(具体的には書かないが)。昨今のコンクール万能(?)時代を反映していると思われる演奏で、それは立派なものであったが、聞いていて楽しめないのは確かだった。ご当人たちにはそんなことは言えないのだが、私が同じ曲を演奏するのだったら、もっといろいろ「楽しみ」のある演奏にしたいと思ったものだ。この「楽しみ」であるが、流行語と化している「楽しみたい」とは意味は違うと思っていただきたい。聞いている人が「楽し」んでいただけるような演奏という意味であって、自分が楽しむということでは決してない。もちろん言うは易く・・ということは当然である。

話は変わるが、ある室内楽団体の演奏を聴き、その見事さに感銘を受けたことがある。これも具体的には書かないが、演奏者のお話をするコーナーがあり「楽譜をよく読んで演奏したい」「習慣でこう弾く、ということがあっても楽譜とは違っていることがある」などという話だった。なるほど、これは大事なことに違いない。「演奏慣習」の名のもとに行われているテンポの揺れや音の変更について、作曲家が書いた楽譜を見直すという姿勢には賛成だ。

ただ、例えばアレンスキー「ピアノ三重奏曲第1番」で以下のような箇所ではこの団体の演奏では楽譜にないアッチェレランドを行っていた。私が知る限りはここはアッチェレランドをする演奏が多い(しかし速くするような指示はない)。書いてないことを行うのだから「楽譜をよく読む」こととは違う解釈があるということだと思う。

それと、この曲では、提示部後半でピウ・モッソとなってから展開部に入り、再現部までア・テンポの指示が書かれていないという問題があって、若いころ仲間ともめたことがある。弦楽器パートは音符が少ないのでそのままのテンポで走っていきたいのだろうが、ピアノパートは装飾音符がたくさんあって、同じテンポで演奏するとは考えにくいのだ。さらにそのままのテンポで仮に行くとしても再現部でもう一度ピウ・モッソがある。常識的に考えて、どこかでテンポをもどす指示があってしかるべきではなかろうか。

 

こういうことは「楽譜に忠実」だけでは解決できないと思う。やはり演奏慣習についてよく調べた上でないと危険だというのが私の現在の考えだ。前述のピアノ三重奏団はこの点は上手に解決していたと思う。

 

つまり楽譜をよく読むことは重要だが、その通りにしなければならないということではない。

 

学生時代からべートーヴェンに関しては相当調べてきたつもりであるが、今はモーツァルトについて研究中である。生きているうちに結論が出るとは思っていないし、それでよいと思う。演奏は時代の中で生きるものであって、その時代の文化に貢献するために行うものだと思うからだ。