後から聞いた話では、あと1時間病院に行くのが遅かったら命はなかっただろうと言われました。
手術後は全身麻痺の状態でした。
そんな中、不思議な出来事が。

意識のない次女がうわ言のように
「僕は5人兄妹で…」と。
私は、付き添う中、ずっと般若心経を唱えていました。

集中治療室を、出て大部屋に移って何日かした時に、隣のお子さんのお母さんが
「この子と同じ部屋だった子が、五人兄妹の子だったんだけど、その男の子のお葬式にもお参りにも行ってないんです。自分の子どもと重なってしまって、行く勇気がなくて」
という話をし始めました。

私は、その時、私とそのお母さんの間に、あったかいものを感じて、それがうえに上がっていくのを感じました。

私は、そのお母さんに
「次女の体を借りて、あなたに会いに来て欲しいというメッセージだったのかもですよね。落ち着いたらお参りに行ってあげてください」
というと、お母さんが
「なんだか気持ちが軽くなりました。今度行ってみます」
と、おっしゃってくださいました。

熊大で4ヶ月程、言葉も出ない、1人で立つこともできない、そんな次女とリハビリ、院内学級に通いました。

始めの頃は主人が来て帰る時も、感情が戻っていないので泣くこともなかったんですが、何度めかの面会で帰る時に、涙をこぼしたんですが、その時は、感情が心が返ってきたと思い、一つの喜びでした。

4ヶ月めに地元の市立病院に転移して、リハビリでした。

そこで、初めて私の方に向かってたどたどしく一歩一歩歩いて数メートルを歩いてきた時は、赤ちゃんが初めて歩く時よりも尊いことのように思えて泣きました。

そして、ある日、一緒に寝ていた私の耳元で
「あ〜」という声が聴こえました。

それが、手術後初めての次女の言葉でした。

再びの命をいただいて、赤ちゃんを育てるように共に歩んできました。

それから、放射線治療のために熊大に戻り、手術から5ヶ月ほどで、家に帰りました。

学校へは、私が1日ついて車椅子で通いました。

半年程で、平衡感覚の麻痺と斜視の後遺症が残りましたが、送迎だけですむようになりました。

それから高校まで、仲間はずれなどいろいろ経験しましたが、娘は負けずに学校に通いました。

いつでも、帰ってきていいし、休んでどこかドライブでも行こうかという提案などもしましたが、そうやって逃げ道を作ってあげると、がんばれるみたいでした。

              続きは次回(*´∇`*)