ソ連軍157万人が満州侵攻 戦車に潰された王道楽土の夢

戦後70年 昭和20年夏(4)2015.8.8 13:00

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 昭和20年8月9日午前、満州北部・●琿(あいぐん)(現黒竜江省)にソ連軍機3機が黒竜江(アムール川)対岸のソ連領から低空で現れ、国境を越えた。

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 「ソ連側から不明機が侵入!」

 国境監視所にいた関東軍第135独立混成旅団伍長、安田重晴(94)=京都府舞鶴市在住=は司令部に至急一報を入れた。

 国境警備の任務について3年になるが、こんなことは記憶にない。精鋭だった関東軍も19年以降、多くの将兵が太平洋戦域に転属となり、くしの歯が欠けたような状態だった。対米戦の苦境も聞いていたが、それでも日ソ中立条約を結ぶソ連が満州に侵攻してくるとは思っていなかった。

 11日、監視所がソ連軍の攻撃を受けた。安田は闇に紛れて20キロ離れた旅団司令部を目指した。司令部は強固な地下要塞だったが、すでに激しい戦闘が繰り広げられていた。

 合流した安田は仲間と「とにかく敵の侵攻を食い止めよう」と玉砕覚悟の戦いを続けた。結局、安田ら生き残った日本軍将兵が武装解除に応じたのは22日だった。

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 1945(昭和20)年2月、クリミア半島のヤルタで、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンは、第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトに対して、ドイツ降伏後3カ月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦することを約束。見返りとして南樺太や千島列島の引き渡しや満州の鉄道・港湾権益を要求した。

 この密約に従い、日本時間の8月9日午前0時、極東ソ連軍総司令官で元帥のアレクサンドル・ワシレフスキー率いる80個師団約157万人が3方向から満州に同時侵攻した。スターリンはもともと11日の侵攻を命じたが、6日の米軍による広島への原爆投下を受け、予定を2日早めたのだった。

 ソ連軍は対日戦の準備を周到に進めており、T-34など戦車・自走砲は5556両、航空機は3446機に上った。

 これに対する関東軍は24個師団68万人。戦車は200両、航空機は200機にすぎず、その戦力差は歴然としていた。

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 ソ連軍侵攻を知った関東軍総司令官で陸軍大将の山田乙三は8月9日午後、出張先の大連(現遼寧省大連市)から満州国の首都・新京(現吉林省長春市)の総司令部に戻ると、皇帝の愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)に拝謁した。

 「陛下、総司令部は近日中に、朝鮮との国境近くの通化(現吉林省通化市)に転進いたします」

 山田は、満州国政府を、通化近くの臨江(現吉林省臨江市)に遷都することも提案した。満州国政府内には「国民とともに新京にとどまるべきだ」との声もあったが、溥儀は13日に臨江近郊に移った。

 山田は、撤退により持久戦に持ち込む考えだったが、これには関東軍内にも異論があった。

 当時、満州にいた民間の在留邦人は約155万人。男は大半が軍に臨時召集されていたので女や子供、老人ばかりだった。その多くが突然のソ連軍侵攻で大混乱に陥っており、避難が進まない中で軍が撤退すれば、民間被害が拡大する公算が大きかった。

 満州西部を守る第3方面軍司令官で陸軍大将の後宮(うしろく)淳は、邦人が避難する時間を稼ぐため、玉砕覚悟で方面軍をソ連軍の進撃路に集中させようとしたが、結局、作戦参謀らに説き伏せられて断念した。もし後宮が自らの作戦を決行していれば、邦人被害はもう少し防げたかもしれない。

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 伝令のため新京の関東軍総司令部を訪れた独立歩兵第78部隊第1中隊少尉、秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=は目を疑った。すでに総司令部は通化に撤退しており、残っているのは数人の下士官だけ。幹部将校の姿はどこにも見当たらなかったからだ。

 「無責任極まりない…」

 秋元は怒りに震えた。秋元らの中隊は、ソ連軍の戦車攻撃に備え、中隊を挙げて「布団爆弾」の準備を進めていた。

 布団爆弾とは、30センチ四方の10キロ爆弾を背中に背負って地面に掘った穴に潜り、戦車に体当たりをするという「特攻」だった。

 「ソ連の巨大な戦車に対抗するには自爆しかない」という上官の言葉に異を唱える者は一人もおらず、秋元自身も「最後のご奉公」との思いで穴を掘り続けた。にもかかわらず総司令部が早々に撤退したのは、納得できなかった。

 緊張と失望が入り交じる中で迎えた14日夜、上官がこう告げた。

 「明日正午、玉音放送がある。日本は無条件全面降伏するらしい」

 秋元は動揺した。「勝利を信じて戦ってきたのに。日本はどうなるのか…」。結局、中隊は翌15日に新京で武装解除に応じた。

 武装解除を拒否して戦い続けた部隊もあった。

 黒竜江省最東端の虎頭(ことう)要塞では、ソ連軍2個師団2万人以上に包囲される中、第15国境守備隊約1500人が、避難邦人約1400人とともに立て籠もり、壮絶な戦闘を続けた。

 結局、主陣地は19日夜に約300人の避難邦人とともに自爆した。他の陣地も「最後の突撃」を敢行し、26日に虎頭要塞は陥落した。生存者はわずか50人ほど。これが日本軍の最後の組織的な戦闘となった。

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 ソ連軍の非道さ、残虐さは他国軍と比べて際だっており、各地で虐殺や強姦(ごうかん)、略奪など悲劇が続いた。

 8月14日、満州北東部の葛根廟(かっこんびょう)(現内モンゴル自治区)では、避難中の満蒙開拓団の女性・子供ら約1200人が、戦車14両とトラック20台のソ連軍と鉢合わせした。白旗を上げたにもかかわらず、ソ連軍は機関銃掃射を行い、さらに次々と戦車でひき殺した。死者数1千人超、200人近くは小学生だった。

 この惨事を第5練習飛行隊第1教育隊大虎山(だいこさん)分屯隊の偵察機操縦士が上空から目撃した。怒りに燃えた同隊の有志11人は、総司令部の武装解除命令を拒否し、ソ連軍戦車への特攻を決行した。その一人だった少尉、谷藤徹夫は、愛機に妻、朝子を同乗させ飛び立った。谷藤の辞世の句が今も残っている。

 「国破れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ」

 敦化(とんか)(現吉林省)でも悲劇が起きた。武装解除後の8月25~27日、パルプ工場に進駐したソ連軍が女性170人を独身寮に監禁し、強姦や暴行を続け、23人を自殺に追い込んだのだ。

 麻山(まさん、現黒竜江省)では8月12日、哈達河(こうたつが)に入植していた満蒙開拓団約1千人が、ソ連軍などに銃砲撃を受けた。逃げ場をなくした団員らは集団自決を遂げ、死者数は400人を超えた。

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 ソ連軍侵攻により、昭和7(1932)年3月1日に建国された満州国は13年5カ月余りで消滅した。

 多くの日本人が「五族協和」「王道楽土」の理想郷を夢見て、満州に入植し、未開の大地に街や鉄道、工場などを次々に整備した。明治41(1908)年の満州の人口は1583万人だったが、建国時ではすでに2928万人に膨れあがり、昭和15(1940)年時点で約210万人の日本人が居住していた。

 だが、ソ連軍侵攻により、入植した人々は塗炭の苦しみを味わうことになった。満州からの民間の引き揚げ者数は127万人。軍民合わせて約24万5千人が命を落とした。

 悲劇はそれだけではなかった。満州や樺太などにいた日本人将兵約57万5千人はシベリアなどで強制労働に従事させられ、1割近い5万5千人が極寒の地で命を落とした。