二.二六事件は1936年(昭和11年)

2月26日、陸軍の青年将校ら約1500人が

「昭和維新」

を目指して当時の岡田啓介首相らを襲撃。

高橋是清・大蔵大臣や斎藤実内大臣らを殺害して、首相官邸など東京中枢部を占拠した事件だ。

当時の日本は中国に進出する一方で、国際連盟からは脱退、国内では

【農村部が極端に疲弊し貧富の格差が拡大していた】

二.二六事件の青年将校は、

「天皇親政」

を目的とする「皇道派」と呼ばれる

グループの尉官クラスで、20~30歳代が中心。

政界などの指導者らは腐敗しているとして一掃し、

体制改造で逼塞(ひっそく)状況を打破することが狙いだった。

昭和維新のうた
作詞・作曲:三上 卓
著作権:無信託

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ く
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし


三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり


四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花


五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや


六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ


七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐


八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや


九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう


十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな




昭和五年
 ……作詞者の【三上卓は海軍少尉】で、

昭和5年5月24才の時佐世保でこの歌を発表した。
以来、
昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いだ

 紀元前3~4世紀頃、中国は戦国時代にあった。当時揚子江流域一体を領土としていた楚に、屈原という人物がいた。詩人であり政治家でもあった屈原は、王への進言をことごとく側近に邪魔され、遂には失脚させられて追放される。しかし屈原は他の国に仕えることをせず、祖国の滅亡の危機を憂いながら洞庭湖畔汨羅の川に身を投げた。楚はやがて秦に滅ぼされ、以来屈原は「不運の愛国者」の代名詞となった。

 この歌はこの故事を冒頭に引いている。ちなみに、端午の節句の「ちまき」は彼に由来する。





皇道派の将兵。



大川周明先生。

北一輝先生

石原完爾大佐。