聖職者(キリスト教会関係者)とキリスト教徒は救済されない=携挙されない。その1 | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

今日は5月17日、サラザール氏と2062年から来た未来人氏が、「小惑星衝突か大地震が起きる(のではないか)」と予言したその日になった。
先の記事で「当日が近づくにつれて盛り上がってくるのかな? と思いきや、意外と盛り上がらないで廃れてきてしまった」
と書いたのだが、16日の夜に関東地方で地震があったせいか、最後に来て盛り返してきたようだ。

このブログの訪問者数も昨日、5月16日には1861人となっていて急に増えた。
これも、「5月17日 地震」などの語を検索して訪問した人が多かったためだと思われる。
しかし、これも一時的な現象であり、今日何事も無ければまた元に戻るだろう。
このような「予言が当たった、外れた」にしか興味が無い人達にとっては、このブログは理解できないだろうから定着しないと思われる。

それに、私も「(残り少ない)今になってから・・・」
という気もあるので、「宣伝して来訪者を増やそう。たまたま訪問した人を引き留めて定着させよう」という気も無い。
まあ、成り行きに任せるしかない。


さて、「先の記事で更新は終わりかな?」
と思われた方もいるかもしれないが、また記事を書いて更新してしまった。
しかも、かなり過激なタイトルである。
このタイトルを読んで、「えっ」と驚かれた方もいるかもしれない。
あるいは、「浅利はクリスチャンじゃなかったの?」、「こんな記事を書いていいの?」
と思われた方もいるかもしれない。

だが、こういう文が浮かんでくるし、これは以前から思っていて

「知らせた方がいい。知らせなければならないのではないか?」
と感じていた内容なのである。


さて、もう携挙の予定期間に入っていて、私も、
「いつ天使のUFOが迎えに来てくれるのかな?」
と思って時々空を見ているので、ここのところ預言書の記述を取り上げて解説はしていない。
だが、日課として預言関係のサイトやブログは毎日チェックしている。
そうすると、新しく気がつくこともある。
「今更、今になって預言の解説をしても・・・」
という気もするが、どうしても気になるし、言葉も浮かんでくるので、
今日はその記事を書こう。


私は以前からよく、
「私は聖書は信じているが、いわゆるクリスチャンではない」、
と言ってきた。そして、

「聖書=キリスト教ではない。
教会はイエスの真の代理人ではない。
教会は聖書の真意を理解できていない。」
などと何回も書いていた。

これに関しては、「ノストラダムスもそう思っていただろう」、とは感じていたが、ノストラダムスの作品の中にはっきりとこう示されている記述は見つけられなかった。
「16世紀のフランスというキリスト教が支配している社会の中では、さすがにこうはっきりとは言えなかったのだろう」
と思っていた。
まあ、確かに「アンリ二世への手紙」の中には


僧衣を着た大教皇も元の地位に戻されますが、荒廃し、やがてまったく見放されて、聖なるものは異教徒によって破壊されます。

旧約聖書も新約聖書も排斥されて焼き捨てられ、
そのあとで反キリストが地獄の王となります。


というように「聖書が焼き捨てられて反キリスト(サタン)が地獄の王になる」
というような文もある。
しかし、これは

「一時的にそういうことも起こるが、最終的にはキリストがサタンを成敗して地上に御国が確立される」
という前提の予言であり、
「永久的にサタンの勝利が続き、キリストは敗退、撤退する、という予言ではない」、
と解釈されてきた。


ヨハネの黙示録などにも「サタンが勝利する」
という記述があるが、これも、「神の計画で御国が確立されるまでの途中経過での一時的なものだ」
と解釈されてきた。
「ノストラダムスも同様だろう」と思われてきた。


教会も民衆も、
「ノストラダムスも『最終的にはキリストが勝利して御国が確立される』
という未来図を想定していてそういう予言したのだろう」
と考えていたのである。
だから、このように書いても当時のキリスト教や教会からは見逃されてきた。


確かに、歴史の変遷を考えると、期限=1999年までに地球人が全体として天使軍団を呼んで受け入れれば悪魔軍団の侵略を阻止して天使王国を確立できるかもしれない。
つまり、今史から来史へと飛躍できるかもしれない。
だが、それは、期限=1999年までの話であり、今回のように、地球人が期限までに天使を受け入れなければ、その可能性は無くなってしまう。

今回のように期限までに地球人が天使軍団を受け入れなければ、この歴史においてはもう御国=天使王国は出現しないで、その後永遠に悪魔帝国が続いていく。


この今史から来史への転換、飛躍、がいかに困難であるか、は天使も身にしみて感じているだろう。
そして、、当時の人達にこの構造、歴史の変遷を理解させることは非常に難しい。

いや、それは不可能である。
だから、「キリスト(天使軍団)が地球の覇権奪還に失敗して、撤退を余儀なくされて、永遠に悪魔帝国が続く」
という未来もあり得る(実際に未来はそうなっているのだが)
ということを理解させることはできないし、そう予言するのは聖書とキリスト教の教義に反する、
とはノストラダムスも充分に理解していた。


もし、そんなことを予言したならば直ぐに捕らえられて宗教裁判にかけられて死刑にされてしまうだろう。
それを充分に理解しているノストラダムスは、ある程度は仄めかしてはいても、あまりはっきりとは書かなかったのだろう、
と思っていた。

そこまでの危険は冒さないだろう、と思っていたのだ。

だから、私も、ノストラダムスの作品には、
「(一時的に)サタンが勝利する」という記述はあっても「永遠にサタンが勝利する」という予言は無いだろう、
と思っていた。
ところが、そうでもない、と気がついたのだ。


「ノストラダムスの大事典」というサイトがあり、管理者は「いずれノストラダムスの全作品を解説して注釈をつけよう」
と考えていて、今まで取り上げていなかった詩も少しずつ取り上げて解説している。
それで、最近、次の詩を取り上げた。
この解説を読んでいるうちに、
「この詩は、サタンが永遠に勝利することを予言(描写)した詩ではないか?」
と気がついたのである。
それは次の詩だ。


第8章98番


De gens d'Eglise sang sera espanche',
Comme de l'eau en si grand abondance:
Et d'vn 「長いne sera restranche',
Ve ve au clerc ruyne & doleance.


教会の人々の血が流されるだろう、
水のようにあまりにも夥しく。
そして長い間(その流れは)止まらないだろう。
災いなるかな、災いなるかな、聖職者には破滅と苦難。


(ノストラダムスの大事典の訳)
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/2361.html




この詩では「聖職者と信徒の破滅と苦難が予言されているのであって、サタンの永続的な勝利が予言されているのでは無い」
と思われるかもしれないが、聖職者の破滅と苦難=サタンの勝利、なのだから同じである。
この訳は以前から読んでいた


教会人の血が流される
大量の水のように
それは永らく抑えられぬ
悲しいかな 破滅と悲嘆が聖職に
(山根和郎訳『ノストラダムス全予言』)


の訳とほとんど変わらないので、ずっと以前に気がついてもよさそうなものなのだが、以前は「またサタンの勝利を預言した詩だろう」
くらいに思ってあまり気にかけなかったのである。


確かにノストラダムスには、
「災害や艱難(疫病と大飢饉、戦争など)が起きる」
あるいは、
「サタン(悪魔軍団)が勝利する(=地球の覇権を取る)」
と予言されている詩が多い。
だから、「ノストラダムスは不吉なことばかりを予言した予言者だ」
と思われてきた。

では、何故、教会がそれを見逃してきたのか?
というと、
「各詩というのは、それぞれ、未来におけるある一地方の一時代(短期間)の出来事を予言したものだ」
と思われていたからだ。

確かに、(一見)、そのような形式で書かれてあるから、誰でもそう思い込んでいた。
それに、ヨハネの黙示録などでも、全編が戦争や地震などの災害、疫病や大飢饉の発生などの「悲惨な艱難に見舞われる」と預言されている。


ただし、それらは「産みの苦しみ」であって、最後はキリスト様がサタンを成敗してくれて地上にキリストが支配する地上天国、御国が出現する、
と預言されている。
だから、人々は「それらの災害、艱難が起きるのは仕方ない。しかし、キリスト様を信じて、最後まで耐え忍んだ義人は救済される。キリスト様が救済してくれる」
という永遠の救済を信じてキリスト教を信仰してきたのである。




だから、「いつか必ず御国が出現する」と信じてきた。
それは、「何故なら、聖書にそう書かれてあるからだ。聖書で預言されていることの全てはいつか必ず(この歴史の延長上の)未来において実現する」
と考えていたからだ。
これは「歴史はこの歴史しかない」という単一歴史観しか知らないからである。


それで、ノストラダムスの「悲惨な艱難が起きる」という詩も、「その途中経過の艱難を切り取って描写した予言だ」と考えた。
ヨハネの黙示録にも、ず~っと悲惨な災害や艱難が描写されているが、

「ノストラダムスの各詩もその中のどれかの災害や艱難を予言したものだ」
と解釈されてきたのだ。
だから、どんなに悲惨な艱難の詩が多くても、「これは聖書の預言とは矛盾しない、抵触しない」とされてお咎め無しだった。
「サタンが勝利する、教会が破滅する」と書かれてあっても、
「それは一時的な短期間の出来事だろう」
と(勝手に)思い込んで解釈してきたのである。


さて、8-98に戻ろう。

この詩では「聖職者とクリスチャンに破滅が降りかかる」
と予言されているが、
当時を取り仕切っていた教会からしたら随分不吉な予言である。
でも、お咎め無しで見逃されたから、彼の作品の中の一つの詩として収まっている。
では、何故、教会が見逃したのか?
というと先に説明したように、これも
「どこかの地域の一時的に起きたことの予言だ」
と考えていたからだ。

事実、今までのノストラダムス研究家もこう考えてきて、「これに当てはまる事件」を探しては「この詩はこの事件を描写したものだ」と提案してきた。
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/2361.html




の「信奉者側の見解」にはそれらが並べられている。
そして、「同時代的な視点」では、


>実際のところ、ラメジャラーが指摘するように、キリスト者の受難は中世の予言的言説ではごくありふれたものだった。


と書かれてある。
そう「ごくありふれたもの」なのである。
ただ、従来の「何かの特定の小事件に当てはめよう」としか考えない研究家にとっては、この詩は扱いにくい。
というのは、この詩にはひとつも地名が書かれていないからだ。


>この詩は漠然としている。20世紀の共産主義社会を強く非難し、関連する「解読」をいくつも公表していたイオネスクですら、この詩を近未来に関する付随的な詩篇としていたのは興味深い。つまりは、モチーフが分かりやすくとも、ここまで事件を特定する鍵に乏しい詩篇を、フランス革命やロシア革命に結びつけるのは難しいと認識していたということだろう。


「事件を特定する鍵(=ヒント)」というのは、地名、都市名を指しているのだろう。
あるいは、何かよく解らない不思議な語があったら、

「これもアナグラムか何かで謎が解けるヒントになるのだろう、と考えた。


つまり、ひとつでも地名が入っていたら、
「これはその地名の地方で起きたキリスト者の受難事件の予言だろう」
として、ぐっと絞られてくる。
その地名の歴史を調べて、これに当てはまりそうな事件があったら、

「この詩はこの地方のこういうキリスト教の迫害事件を予言したものだ」
と発表できる。
ところが、この詩には地名がひとつも入っていないから、土地を絞られない。
ヨーロッパ全土にまで範囲を広げなければならないから、特定し難くて難しいのである。
それでも各研究家はあちこちの事件を引っ張り出してきてはいるが。


各研究者は、

「ノストラダムスは未来のあるシーンを予見して詩で描写した。
だから、彼にはその事件がいつ、どこで起きるのかが解っていた。
でも、この詩では地名と時代のヒントを書かなかった(書き忘れた)。
ノストラダムスもそこまで親切ではなかったんだろう」
くらいに考えて解釈しようとしているのだ。


では、従来の研究家の視点を捨てて、私の説、私の視点からこの詩を解釈していこう。
私は、
「ノストラダムスは全人類の運命に関係していることしか預言していない」
と考える。


そうすると、私の説をよく理解している方ならば既に解るだろう。
この詩は「今回のこの歴史の未来の地球人を描写した詩」である。

別に、ちっとも難しくない。
全地球人を対象としているのだから、どこかの地名を入れる必要は無いのである。


「だが、『永遠に』とは書いていないじゃないか」
と指摘する人もいるだろう。
しかし、よく読むと、ノストラダムスはそれを仄めかしている。


それは「長い間」と訳されている long temps という語だ。
「長い間」とは随分と漠然とした語である。
「長い間」というとどれくらいの期間を想像するだろうか?
普通は、数十年、50年から100年くらいだろうか?
ヨーロッパの歴史を見ると、キリスト教が迫害されたのはいくつもの国で何回もあるが、長くても50年から100年くらいだろう。
ましてやノストラダムス以後の歴史を見ると、「100年以上もキリスト教の迫害が続いた」
というのはあまりないように思える。
まあ、50年間だとしても充分に「長い間」と表現してもよい、と思われる。
これは、従来の一般的な人達の思考である。


では、ノストラダムスはどういうつもりで long temps 「長い間」と表現したのだろうか?
というと、それは「永遠に」という意味で使ったのだろう、と思われる。
地球の50億年というスパンから見たら1億年でも10億年でも「長い間」と表現してもおかしくない。
永遠の命を持って未来から来ている天使からしたら、「長い間」は、我々地球人からしたら「永遠」に等しい。
「2000年以後の未来ずっと」を「長い間」と表現してもおかしくはない。
ノストラダムスはこの「地球人と未来人との意識の差、感覚の差、ギャップ」を上手く利用したのだ。


今回のように、地球人が期限=1999年までに天使軍団を呼ばなかった場合は、もう、天使軍団が地球に復帰することはできない。
天使にできることは個人救済=義人を引き取ること=携挙だけだ。
しかも、それは2016年くらいで終わってしまう。
それ以後の地球にはキリスト=天使は二度と来ない。
となると、携挙にあずかれずに地上に残された人達は、悪魔の奴隷にされて永遠に悪魔に仕えるしかない。
この詩はこの「永遠の地獄」を描写した詩なのである。
この構造が解れば、この詩は別に難しくない。
非常に解り易い詩である。


では、ノストラダムスが言いたかったことはそれだけなのか?
というとそうではない。
ノストラダムスがこう書いたのは、もっと別のことを言いたかったのである。
ノストラダムスが、「期限までに天使を呼ばなかった愚かな地球人はこうなるぞ。こういう地獄に落とされて永遠に悲惨な目に遭う」
とだけ告げたかったのならば、
「人々は、人達は」と書けばいいではないか。
ところが、この詩ではそう書かれていない。

先に書いたように、永遠の地獄に落とされて、永遠に苦しむのは、「教会の人々と聖職者だ」
と書かれてあるのだ。

対象がクリスチャンと聖職者に絞られているのだが、これがポイントである。


だが、その当時の人達もその後の研究家も、
「聖職者や信者が破滅する」
とあっても「一般大衆が破滅する」と大して変わらないだろう、
と軽く考えていた。


ノストラダムスは「一般の人々も教会もそう解釈するだろう」と見越してこう書いたのである。
つまり、

「教会の聖職者と信者達、クリスチャンは永遠に救われませんよ」
「いわゆるクリスチャンで救済される人は一人もいませんよ」
と言いたかったのである。
これがノストラダムスの本意、真意なのだ。


しかし、あの当時にこんなことを言える訳がない。
教会や信者達への迫害は、ある地域で一時的にはよくある。
しかし、それは長い間としても数十年間くらいで永遠に続くことは無い。
それに、「たとえ迫害されて殺された信徒達であっても、その魂は最後の審判の時には復活してキリストによって祝福されて永遠に救済される」
というのがキリスト教の教義だ。
聖職者も信者もそう信じている。


「たとえ今世で救済されなくても、来世では永遠に救われて天国に行ける」
と思い込んで、そう信じているのだ。
ところが、「聖職者もキリスト教徒も永遠に救済されないで地獄の劫火に焼かれて苦しむ」
などと言ったら、

「そんな馬鹿なことがあるものか」、
と今の信者だってそう思うだろう。

「永遠に救済されたい。永遠の至福にあずかりたい」
そう願うから人々はどれかの教会に属して洗礼を受けて教会に寄付してきたのである。
ところが、「クリスチャンになったら救済されない。どこかの教会、宗派に属したらもうお終いだぞ」
というのならば、
「今までのキリスト教の歴史は何だったの?
救済詐欺ではないか」
と思うだろう。


ノストラダムスにしても、当然、そんなことははっきりとは書けない。
しかし、彼は、それを伝えたかった。


この詩でノストラダムスが言いたかったのは、
「聖職者もクリスチャンも、いわゆる教会関係者は救済されない=携挙されない」
ということだ。


これを伝えるためにこの詩を書き、今説明したような巧妙な技法を使ってカモフラージュして仄めかしたのである。

「クリスチャンは救済されない」これは、私も前から考えていたことだ。

このブログを読んでいる人の中で、私の説を好意的に受け取ろうとしている方でも、
いわゆるクリスチャンの方もいると思われる。
しかし、そういう方に忠告しておく。

救済されたい=携挙されたいのであれば、いわゆるクリスチャンであることを止めなさい。
クリスチャンであることを捨てなさい。
クリスチャンであるならば救済=携挙されませんよ。
と。