イエスは「人の子」を悪魔的未来人の意味で言っていた。その3 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

少し間が空いてしまったが、マタイによる福音書の24章の37節から44節までの解説の続きをしよう。


24:37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
24:38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
24:39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
24:40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
24:41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
24:42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
24:43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
24:44だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
(マタイによる福音書)


ここはイエスの言葉の中でも有名な箇所でクリスチャンならば誰もが知っているものだ。
そして、クリスチャンにとっては聖書の中で最も大事な箇所である。
何故なら、「イエス自身が終末に起きる事、を預言した箇所」だからだ。
しかし、その「最も重要な言葉」であるにも関わらず、聖職者もクリスチャンも大変な誤解をしていた。

だから、今、取り上げているのだ。


それで、前回までに37節から44節までを解説し終えた。
従来の解釈というのは、

「人の子、とはイエス、または再臨のイエスを指している」
と考えて、これは、

「イエスの再臨と携挙の状況について預言したものだ」と考えた。
その見地からすると、この言葉は、
「人々が油断をして飲み食いしている時に突然イエスは再臨して来る。
そして、直ちに携挙を行う。
あなたがたはいつイエスが再臨して来るのかは事前には解らない。
しかし、いつイエスの再臨と携挙が行われてもいいように備えておきなさい」

というようなものだと解釈されてきた。
この解釈には別に不自然なところは無い。
長年に渡って教会で聖職者はこう説教してきて、信者も「イエス様がこう仰ったのだからそうなんだろう」
と思ってきた。

だが、私はこの解釈は間違っている、と書いた。

私はこの話は、イエスの再臨と携挙についての預言ではなくて、悪魔軍団の襲来を描写したものだ、と解釈して説明した。


その根拠は、この言葉の冒頭にある「人の子」を「地球人の子孫=未来人」と考えて、
「悪魔軍団(悪魔的未来人)は突然に襲来してくる。悪魔軍団は地球人の半分は不要だと判断して取り除いて、半分だけを奴隷として残す。」
という2016年の7月以後を予言した言葉だ、と解釈したのだ。

悪魔軍団の侵略を許してしまった人達についての描写だから、

>いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。

という言葉は、
「その人達は悪魔軍団襲来の時が事前に解らなかったから悪魔軍団の侵略を許してしまった。」
という意味で言っていて、
>だから、目をさましていなさい。


というのは、
「あなたがたは同じ過ちを繰り返さないようにしなさい。悪魔軍団襲来の時を事前に知って、それを阻止できるように準備をしなさい」
という警告、忠告、指示の意味で言った、と解釈するべきなのである。


だが、熱心なクリスチャンであればある程従来の解釈が浸み込んでいて刷り込まれてしまっている。
だから、従来の解釈とは全く違う、むしろ真逆ともいえる解釈を直ぐに受け入れることは難しいのではないだろうか?
やはり、「長年の、正統的な、権威ある、学術的な」という解釈を直ぐに捨てるのは難しいだろう。


また、「そんなこと急に言われても・・・、その解釈が正しいという証拠でもあるのか?人の子はイエスを指している、でいいではないか。人の子=地球人の子孫=未来人、というだけではこじつけで珍説だよ。そんな解釈は異端だよ。それとももっと他に、お前の解釈が正しい、という証拠でもあると言うのか?」
と反発する人もいるだろう。

ところが、「私の解釈の方が正しい」という証拠が「人の子」以外にもあるのだ。
それは、この一連の言葉の中のまだ解説していない言葉の中にある。


24:42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
24:43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
24:44だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
(マタイによる福音書)


この文を文脈に沿って、よく考えていこう。
まず43節、

24:43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。



これは「家の主人」を地球人に、「盗賊」を悪魔軍団に喩えている、と考えればよい。
つまり、「家の主人(=地球人)は、盗賊(=悪魔軍団)がいつ自分の家(=地球)に侵入して来るのかを事前に察知していたのならば、盗賊の侵入(悪魔軍団の地球侵入)を許さないだろう」
という意味だ。

こう解釈すれば、これは非常に解り易い単純な言葉である。

そして、問題は、この文が42節と44節の間にある、ということだ。
43節を元にして考えると、


24:42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。



この「あなた方の主」というのは、盗賊=悪魔軍団を指している、と考えるのが普通だろう。つまり、


24:42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主(=盗賊=悪魔軍団)がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。


となる。
これにより、あなたがたの主=盗賊=悪魔軍団、となる。
同様に44節の人の子も盗賊、悪魔軍団を指している、と考えるのが文脈に沿っている。
つまり、

24:44だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子(=盗賊=悪魔軍団)が来るからである。


と考えるべきだ。
つまり、「あなたがの主」と「人の子」は「悪魔軍団を指している」と考えた方が自然なのである。


従来の「これはイエスの再臨と携挙の話だ」と考えて、ここを読むと。
>家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。


という文は明らかにおかしい。
イエスの再臨と携挙の話をしているのに、何故突然「盗賊の侵入の話」が出てくるのだろうか?
という疑問がある。


「イエスが突然再臨して来る、というのを、突然盗賊が侵入して来る、ということに喩えたのじゃないの?」
と言うかもしれないが、もし、そう喩えるのだったら、

家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわからないように、人の子(再臨のイエス)も突然来るであろう。


と書けばいいではないか?
「自分の家に押し入る」というのは、盗賊、悪者がすることであって、これをイエスの再臨(イエスが降臨してきて地上に降り立つこと)に喩える、というのはおかしいではないか。
「イエスと盗賊を同一視している」と言われても仕方ない。


それに、イエスの再臨と携挙は信者にとって待ち望んでいた喜ばしいものなのに、盗賊の侵入というのは、不快で不幸なことである。
共通項は「突然、思いがけない時に起きる」というだけであり、結果は正反対のものである。
イエスの再臨と携挙を盗賊の侵入に喩える、というのは、明らかにおかしい、不的確だ。
思慮深いイエスがこういう喩えをするはずがないではないか。


しかし、聖職者は今まで「人の子とは再臨のイエスを指している」という先入観のまま「これらの一連の言葉はイエスが自分の再臨と携挙について述べた言葉だ」
という解釈で押し切って信者にそう教えてきた。
「イエスが自分の再臨と携挙を盗賊の侵入に喩えた」という矛盾と不自然さを無視してきたのである。

ところが、人の子とは地球人の子孫の中の悪魔軍団を指している、と考えて、この話全体を「悪魔軍団の侵略の話だ」と解釈していけば、何の矛盾も無い。
非常にすっきりとした解り易い話だ、となる。


つまり、イエスはここで「2016年7月以後の悪魔軍団の地球侵入の予言」をしていたのに、その事情、構造が解らなかった地球人は、
「これは終末に起きるイエス再臨と携挙の話だ」
と勝手に勘違いしてしまって、そのまま今日に至っている、というのである。