聖書に出てくる「人の子」とは、「地球人の子孫=未来人」という意味だ。その2 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

さて、昨日取り上げたダニエル書の記述の中の「人の子」とは、「地球人の子孫=未来人」の中の天使軍団(天使的未来人)を本当は意味している、とした
では、ここでもう一度マタイによる福音書の中のイエスの言葉を読んでみよう。


24:30そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
24:31また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
24:32いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
24:33そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
(マタイによる福音書)


30節と33節に「人の子」が出てくる。
また、31節の「彼」も「人の子」を指している、と考えられる。
まず、この中の31節と32節を考えてみよう。


>24:31また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。


これは完全に携挙の描写だ。
彼(人の子=天使軍団)は、大いなるラッパの音と共に(ヨベルの年のうちに)天のはてからはてに至るまで、四方からその選民(義人)を呼び集めるであろう。

というのだ。
だが、実際は、「携挙の予定期間中に天使を呼んだ義人のところへUFOを差し向けて義人を拾い上げる」
という方法を採ると思う。


>24:32いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。


これは、その携挙が「いちじくの枝から芽が出る時、夏の前=春」に行われる予定だ、と示している。
これらの言葉は簡単だ。
問題は、その前と後の文だ。
まず、30節を考えていこう。


>24:30そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。
またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

ここには二つの文があるが、ひとまず別々に考えた方がいいだろう。
まず、この「人の子のしるしが天に現れるであろう」の天のしるし、って何だろうか?
というと、
1999年8月のグランドクロス~これは再臨の天のしるしだった。
か、
2014年4月から2015年9月までの月蝕と日蝕の天のしるし~これは携挙のしるしである。
のどちらかを指している、と考えられる。
この二つは15年間離れている。
しかし、どちらもイエスがこの預言を言った当時から見たら約2000年後の話である。
2000年というスパンから見たら15年間の差というのは大したことは無い。
「(ほぼ)同時)」と見なしてもいいだろう。
なので、両方を指している、とみなしても良い、とも考えられる。


>そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

これは再臨か携挙の描写だろう。
だから、これは、「1999年の再臨か2016年の携挙かのどちらか、あるいは両方の描写である」
と解釈できる。

と思ったのだが、ひとつ気になる語があった。
この文の前に、
>またそのとき、地のすべての民族は嘆き、


という言葉があるのだ。
普通、再臨か携挙ならば、人々は「喜び祝って」と書くべきではないのだろうか?
キリスト教徒ならば、再臨と携挙を待望しているはずである。
再臨か携挙というのは「永遠の祝福、永遠の救済」に結びつくものだからだ。
信者は「再臨か携挙の時=審判の時、に自分は永遠に救済されるだろう」と信じている。
それなのに、何故「地のすべての民族は嘆き」と書かれてあるのだろうか?
この「嘆き」という語がどうしても引っかかる。


ただ、艱難後携挙説を採る人は
「地上の全ての人々が大きな艱難に遭って嘆き悲しんでいる時に、人の子(メシア、再臨のイエス)が力と大いなる栄光とをもって降臨してくる」
と解釈して、この語こそ艱難後携挙説の根拠だと主張した。


だが、以前説明したように、理論的に考えても、また、他の預言解釈からしても、艱難後携挙説は有り得ない。


では、この文の真意はどうなんだろうか?
イエスは本当はどういう意味でこの言葉を言ったのだろうか?

ここにきたら、これをはっきりとさせなければならない。
では、原典ではどうなっているのだろうか?
と思うが、新約聖書の原典はギリシャ語なので、調べるのが難しい。
英語版ならばまだ調べ易いだろう。

それに、世界で一番普及していて最も多くの人に読まれている聖書は英語版であり、

天使は「新約聖書に関しては、ギリシャ語の原典ではなくて英語版を指標、基準にしている」、とも考えられる。

それで英語版のこの節は、


30 And then shall appear the sign of the Son of man in heaven: and then shall all the tribes of the earth mourn, and they shall see the Son of man coming in the clouds of heaven with power and great glory.


となっている。
「嘆き」と訳されている語は、 mourn である。
この語には、
〔死者・死・損失・不幸に対して〕嘆く,悲しむ,哀悼する,弔う、 喪に服する.
などの意味がある。
http://ejje.weblio.jp/content/mourn


つまり、「大勢の人々が死に、生き残った人達は死者を哀悼して悲しみ、また、自分達を襲った不幸や大きな損失に対して嘆き悲しむ」
という意味だ。
となると、この文は、
地上の人々が〔死者・死・損失・不幸に対して〕嘆き悲しんでいる時に、力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

という意味になる。
これは、「大艱難の最中に人の子が降臨して来る」としか解釈できない。
となると、やはり艱難後携挙説が正しいのだろうか?
このままでは艱難後携挙説に軍杯が上がりそうだが、これをひっくり返す解釈ができるのだろうか?


ここで私は、
「人の子というのは、地球人の子孫=未来人、という意味だが、地球に来ている未来人は天使軍団だけじゃない。悪魔軍団も来ている。
ということは、悪魔軍団も人の子の中に含まれるのだ。
じゃあ、この文の人の子とは、悪魔軍団の方を指しているのではないだろうか?」
と気づいた。
「人の子=メシア、キリスト=天使軍団」とは限定できないのである。
イエスは、ここでの人の子を悪魔軍団という意味で言った、とも考えられるのである。


ここまで考えた時に、私はイエスが仕掛けた罠、トリックが解った。
つまり、イエスの本心は、
「人の子と言えば、誰もがメシア、または再臨のイエスを指している、と思うだろう。
だが、ここでの人の子、とは、実は地球人の子孫の中の悪魔軍団を指しているんだよ」

というものだったのである。


では、実際の状況=既に存在している未来、を考えてみよう。
悪魔軍団の降臨は2017年の4月だが、その9ヶ月前の2016年の7月から艱難が始まっている。
世界中に疫病がばら撒かれて大飢饉が発生して、地上の人々の3分の1が死に絶え、生き残った人達も飢えに苦しんで瀕死の状態にある。


まさに、
>またそのとき、地のすべての民族は嘆き

の mourn 
〔死者・死・損失・不幸に対して〕嘆く,悲しむ,哀悼する,弔う 喪に服する.
という状態にある。
この状況の時に、悪魔軍団はキリスト(友好的宇宙人)を装って華々しく天から降臨してくるのだ。
まさに、


>またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。


という表現にぴったりのことが起きるのである。
つまり、この言葉は、


イエスの再臨を預言したものではなくて、悪魔軍団がキリストを装って降臨してくる状況を描写したものだったのである。

では、その後はどうなるのか?というと、
悪魔軍団はキリスト、友好的宇宙人を装って降臨してくるので、人々はすっかり騙されて彼らを歓迎してキリスト=自分達の主人、として迎え入れてしまうのである。


>24:30そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。


そうすると、これは1999年のグランドクロスよりも2014年4月から2015年9月までに起きる「天のしるし」の方を指している、
と考えた方がいいだろう。


このように考えると、「この記述が艱難後携挙説の根拠になる。」
とは言えない。
これは、この「人の子」をメシア(再臨のイエス)と取るか、それとも地球人の子孫のなかの悪魔軍団と取るか、の違いによるのだが、
私は、イエスは後者の意味で話した、と考える。


だが、艱難後携挙説を主張する人は、これくらいでは諦めないだろう。
「そんなことこじつけだよ。トンデモだよ。
そんなSF的なことが起きる訳ないじゃん。
従来の神学的解釈が正統的で学術的なんだよ」
と言うだろう。

では、どちらが正しいのだろうか?
それを明らかにする為に、もう少しイエスの言葉を調べよう。