艱難後携挙説を信じている人達は、艱難が起きてからイエスを呼ぶだろうが、それでは手遅れである。 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

ある人のブログを読んでいたら、次の言葉が書かれてあった。


>私は携挙はいつ起こっても全く恐れる必要はないと信じます。もし我々が正しいところに立っているなら。
ただ、私はそれは患難期の最後に起こると信じます。それは久保有政先生の説明をもって私も賛同しておるからです。
http://ameblo.jp/davidu777/entry-11959431411.html


この人は、聖書を信じていて、特にその終末預言に関心があり、天のしるしなどについてもいろいろ書いているのだが、艱難後携挙説を信じていて、その根拠は久保有政氏の聖書解釈を全面的に支持しているからだという。
その久保氏の「携挙の時期に関する考察」は、次のぺージに纏められている。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/shumatsu04.htm


さて、この人の
>私は携挙はいつ起こっても全く恐れる必要はないと信じます。もし我々が正しいところに立っているなら。


これはキリスト教の信者、クリスチャンがよく言う言葉である。
だが、私はこの言葉を読んで感じたのは、まず、
「ああ、この人は、携挙というものを非常に受動的に幻想的に考えているんだな」
ということだ。
この人は
「再臨と携挙というのは、イエスが(一方的に)行うものなのだから、我々人間はそれが『いつ行われるのか』を事前に知ることはできない。
だから、それがいつ、突然に起きてもいいように心の準備をしておこう。
イエスから見て正しい行いをしていたなら、イエス様はきっと助けてくれる。携挙して下さるだろう」
と信じていて、これははぼ全部のクリスチャンが考えていることなのだろう。


こういう人達が必ず口にするのは、

24:36その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

(マタイによる福音書)


というイエスの言葉である。
この言葉は本当に「馬鹿のひとつ覚え」のように必ず持ち出される。
信者は、
「イエスが自分でその時(再臨、携挙、審判の時)は知らない、
と言ったのだから、人間がそれを判るはずがない。
聖書にも書かれていないはずだ。」
と考えているようで、この言葉の影響力は実に大きい。

だが、これは本にも書いたのだが、


8:17隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。


11:9そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
11:10すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
(ルカによる福音書)


というイエスの言葉もあるのだから、先の言葉だけを馬鹿のひとつ覚えのように唱えて、それに縛られるのもおかしいのではないだろうか?
私が提唱する艱難前携挙説が正しければ、携挙の前に携挙の予定期間を知って、その期間中に自分から天使のUFOを呼ばなければ携挙されないのである。
ただ待っていても天使は迎えに来てはくれない。


さて、最初に挙げた文をブログに書いた人は、
久保有政氏が唱える艱難後携挙説を信じている、という。
久保氏は、東京聖書学院を卒業したプロテスタント系の聖書解説家でキリスト教関係の著書も多数あり、レムナント出版という出版社を設立、運営している。
聖書、キリスト教のプロである。
聖書に関しては私などよりも遥かに詳しく勉強されている。
その久保氏が艱難後携挙説を支持するに至った、という根拠は先のページに書かれてある。
久保氏は何十年も聖書を研究してこの結論に至ったのだろう。

だが、久保氏に限らず、キリスト教の信者や一般の人達全ては、
「単一歴史観=4次元的思考」に縛られており、この思考しかできないで、この思考の下で聖書を解釈していこう」
としている。
つまり「歴史は変遷してきた」という思考ができないのだ。
ここに最大の問題点がある。

聖書とは「神の計画=人類進化の道程=歴史の変遷」を象徴技法を駆使して書かれた預言書なのだから、単一歴史観しか持っていないのでは絶対にその真意は解らない。
単一歴史観しかないと「聖書に書かれてあることは、全部この歴史で成就する」
と思い込んでしまうので、預言されていることを全部無理やりこの歴史の延長上の未来に押し込めてしまうのである。

だから、「イエスがサタンに勝利して地上にイエスが支配する義の王国が出現する」
と書かれてあると、「それも、いつか、この歴史の延長上の未来において必ず成就する」
と決め付けてしまう。
しかし、御国、地上天国の実現は来史の話で、
「期限=1999年までに地球人が天使軍団を呼んで、悪魔軍団の侵略を阻止できた場合にそうなる」
という条件付の預言なのだ。
う~ん、そうは言ってもこれはなかなか理解できないだろうなあ。
それに、クリスチャンはノストラダムスを預言者として認めないだろうし。


それと再臨と携挙の区別がつかないでごっちゃになって混合してしまっている。
イエスの再臨というのは、天使の地上復帰であり、その予定時は1999年だった。
掲挙というのは、天使の地上復帰ができなかった場合に、艱難直前に義人だけを救出する、というものだ。

この人も久保氏も一般の信者も、この救済、審判、再臨、携挙の構造と実態を理解できていない。
イエスや天使軍団、悪魔軍団の正体も由来も経緯も具体的には何ひとつとして理解できていない。
神や、イエス様と言っても、ただ、イメージにしか過ぎない。
結局、理解ではなくて、信仰の範疇から抜け出せないのである。

この構造が理解できなければ、携挙にあずかることはできない。

>私は携挙はいつ起こっても全く恐れる必要はないと信じます。


というのは、この人はただただ携挙が行われるのをひたすら待っているだけであり、

「自分から天使のUFOを呼ぼう」とは思っていないのだ。
「携挙の予定期間中に天使を呼んだ義人のところにしか、天使は迎えのUFOをよこさない」
というその構造を全く知らない。
そもそも携挙の予定期間も知らないのだから。


それに、この人や久保氏のように、艱難後携挙説を信じている人は、
「艱難が起きてから携挙があるのだから、艱難が起きてからイエス様に救いを求めればいいだろう」
と考えているのだから、艱難が始まるのをただ待っているのだろう。
携挙の予定期間を何もしないで、ただボケーッとやり過ごして、艱難(疫病と大飢饉)が始まってから
「これが預言されていた艱難なのだろうか?
じゃあ、イエス様を呼べば迎えに来てくれて、天に引き上げられるはずだ。」
と思って、やおら、イエスに向かって祈りを捧げるのだろう。
「主を呼ぶ者は必ず救われる」
という聖句を信じて。
艱難期の最中も「そこに信者の忍耐がある」

という言葉を信じて自己陶酔に浸っているのだろう。


だが、天使はとうに本拠に帰ってしまっているので、いくら呼んでも迎えに来てくれるはずが無い。
結局、祈りながら餓死していくしかないのだろう。
自分達が考えていた「正しい者、義人」と、天使が考えているそれとは大きなズレがある。
そのズレに気がつかないのである。


また、この人が支持した久保氏の、根拠として取り上げた聖書の記述やイエスの言葉の解釈についてだが、
「単一歴史観、4次元的思考」の下で解釈しようとしている。
それに、「文脈から判断して、文脈に沿って解釈すると」
とよく言う。


それは確かに文章を解釈していく上での基本で重要かもしれないが、聖書は預言書であり、聖書の記述は

「いくつもの異なった歴史が並列、混合、錯綜して書かれてある」
ので、それに注意して読み分けていかなければならない。
この技法は、ヨハネの黙示録では顕著であるが、ヨハネの黙示録ほど謎めいた記述ではなくて、平易なように思われる文章でもこの仕掛けが施されている場合がある。
だから「文脈に囚われ過ぎるとこのトリックにひっかかってしまう」恐れがある。
その罠にひっかかってしまっているのではないだろうか?


私は12月13日の記事に、


>これらを考えると、どっちにしても、
艱難後携挙説は無い、有り得ない、と結論づけられる。
聖書研究家の中には艱難後携挙説を唱える人もいる。
しかし、それは、ただ、
「聖書の中のいくつかの記述をそう解釈して、そうだと考えている」
というだけである。


天使の正体も状況も何も解っていないから、
「艱難後携挙説は有り得ない」
というところまで頭が回らないのである。

艱難後携挙説を提唱している人は、どんなに聖書を解釈し、解説しようとも、
「私は天使の正体も事情も、歴史の変遷の構造も全然知りません。そういう理論的なことは全く解りません」
と宣伝しているようなものである。


と書いたのだが、まさにこれの好例のように思われる。


う~ん、せっかく聖書を信じて研究しているのに、もったいないなあ、と思うが。

じゃあ、こういう人にこのブログを知らせたら読むか?
と言ったら、真面目に読む確率はほとんど無いだろう。
たしか、大分前にこの人にも、久保氏にもこのブログを知らせたことがあったと思うのだが、返事は無かった、というか無視されたと思うのだが。