イエス自身は、この世の終わり=終末と自分の再臨と携挙の時期について何と言っていたのだろうか?
また、「艱難期と携挙との時間的関係」について何と言ったのだろうか?
これは非常に重要な問題である。
これが理解できていないと携挙にはあずかれない。
ところが、これについてはいくつかの解釈がある。
これには、主に3っつの説がある。
それは、
艱難期前携挙説、~艱難期が始まる前に携挙がある。
艱難期中携挙説、~艱難期の中期、途中で携挙がある。
艱難期後携挙説、~艱難期の後期に携挙がある。
というものだ。
この中で艱難期前携挙説という説では、携挙される者(信者、正しい者=義人)は艱難期が始まる前に携挙されてしまうので、艱難には遭わない。
それに対して、艱難期中携挙説と艱難期後携挙説では、艱難期が始まってから携挙が行われるので、携挙される者は多かれ少なかれ艱難期を体験しなければならない。
この3っつの説、解釈が存在していて、長い間議論されてきた、ということは、この3っつの説のどれにもそう解釈できる聖書の記述が存在している、ということだ。
では、イエスは艱難期と携挙との時間的関係について、どのように預言したのだろうか?
イエス自身の言葉からそれを探ってみよう。
24:3またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
24:4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:10そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
24:11また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
24:12また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
24:13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
24:29しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
24:30そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
24:31また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
(マタイによる福音書24章)
これは、イエスが弟子の「再臨の時や世の終りには、どんな前兆があるのか?」
という質問に答えた言葉である。
>24:30そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
これは、イエスの再臨についての言葉。
>24:31また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
これは携挙についての言葉である。
そして、この言葉を解釈すると、イエスは「艱難期中携挙説か艱難期後携挙説を指示していた」ように思われる。
>24:9そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
これは、携挙されるべき義人も艱難を経験する、という意味ではないのか?
>24:13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
これは艱難期後携挙説を指示しているように思える。
ただし、これは、この「あなたがた」というのが「この世の終わり=終末の時の人々」を指している、と考えた場合の解釈だ。
しかし、これはそもそも、弟子達がイエスに質問したものに対してのイエスの言葉である。
だから、この「あなたがた」というのは、弟子達を指している、
とも考えられる。
弟子達は、この「あなたがた」というのは自分達を指している、と考えていたようだ。
つまり、弟子達は、
「イエスの死後(イエスの昇天後)自分達は大変な迫害を受け、艱難を経験するが、自分達が死ぬ前にイエスは迎えに来てくれる。
たとえ殺されたとしても(復活して)救済されるだろう」
と解釈した。
だから非常に激しい迫害を受けても、イエスのこの言葉を信じて布教に励んだ。
初期のキリスト教会も、「イエスの再臨と携挙は直ぐにでも起きる、じきに起きるだろう」
と考えていたようだ。
しかし、何十年、何百年といくら待ってもイエスは再臨してくれなかった。
それで、約2千年も経ってしまったのである。
ところが、弟子達についてではなく、ただ「この世の終わりに起きるはずの艱難と再臨、携挙について述べた」と解釈できる言葉もある。
>24:29しかし、その時に起る患難の後 (中略)
>人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
24:31また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
この言葉は、
「艱難の後で再臨と携挙がある」と解釈できる。
そうすると、やはり、イエスは艱難期後携挙説を指示していたのではないか?
と思える。
ところが、イエスはここで、艱難期前携挙説を仄めかすような言葉も言っていたのだった。
それは、
24:21その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
24:22もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
(マタイによる福音書、24章)
という言葉だ。
>24:21その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
これは、「未来のいつか、この世の終わり=終末の時に非常に大きな艱難が起きることが既に決まっている」
という意味ではないのか?
つまり、
「未来のいつかに、この艱難起きるということが、その時点(イエスがこの言葉を話した時点)に存在している」
という考え方だ。
そして、イエスは
「その艱難がいつ起きて、どういう艱難なのかも知っている」、
かのようだ。
>24:22もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
問題はこの言葉だ。
この言葉はちょっと謎めいている、というか解りにくい。
イエスは何故こういう解りにくい表現をしたのだろうか?
この言葉の真意は何だろうか?
「その期間」とは「今現在からその艱難が起きるまでの期間」という意味だろう。
「選民」とは「救済されるべき者=携挙されるべき義人」を指している。
そうすると、この言葉は、
「もし、イエス(天使)が何もしなければ救われる者は一人もいない。
しかし、イエスは、選民(義人)をその艱難が起きる前に救済する(携挙する予定だ)。
だから、義人はその艱難に遭わずにすむ」
と言いたいのではないか?
と解釈できる。
つまり、この言葉でイエスは、艱難期前携挙説を指示していた、と考えられる。
そうすると、結局イエスは、この比較的短い預言の中で、
艱難期前携挙説、艱難期中携挙説、艱難期後携挙説、
のどれとも解釈できるような言葉を残した、と言えるのではないだろうか?
ということは、この中の「これだ」と確定できない。
だから、3っつの説が乱立し、いまだに統一された見解が出ていないのだろう。
しかし、イエスは予め用意されていたシナリオをそのまま言っただけだろうし、聖書も綿密に考え抜かれて編纂された預言書である。
となると、これは、わざと曖昧に、どれとでも解釈できるように作成された言葉、預言だ、と言える。
天使は、ある意図を持ってこのような記述を作成したのだ。
では、預言の真の作者である天使は何故、このようなどれとでも解釈できるような曖昧な記述にしたのだろうか?
ここには天使の作戦、計算が隠されていた、と考えられる。