中学の漢文の授業だったか、「人間万事塞翁が馬」という故事を習いました。
昔の中国の人というのは、すごいことを考えるものですね。
そんな中国古典の中の、有名な故事です。
まず読み方ですが、「人間」は「にんげん」じゃなく、「じんかん」なのだそうです。
つまり、世間とか社会などの意味。
「世間のことはすべて、北の要塞に暮らすおじいさんの馬の話のようなものだ。」
という意味になるかと思います。
あらましはごぞんじですよね。簡単にさわりを言うと、...
ある日、北の要塞に暮らすおじいさんのところから、飼っていた馬が逃げ出したそうです。
馬は財産ですから、村人たちはおじいさんを慰めました。
するとおじいさんは、悲しむどころか、こんなことを言うのです。
「なあに、これが幸いの種にならないとも限らないさ。」
しばらくすると、逃げ出した馬が野生馬を引き連れておじいさんの元に戻って来ました。
おじいさんは労せず、財産を増やしたというわけです。
それで村人たちは、今度はお祝いを言いにおじいさんのところへやってきました。
するとおじいさんは、喜ぶどころか、こんなことを言うのです。
「ななに、これが不幸の種になららにとも限らないさ。」
ある日、おじいさんの孫が、その野生馬に乗って調教しようとしたところ、振り落とされて大怪我をしたのです。
こんな感じで続きます。
要は、幸不幸というものは、そのときの現象だけでは何とも言えないという話です。
「禍福は糾える縄の如し」と言いますが、幸不幸は交互にやってくるという話と捉える人もいるでしょうね。
この話で今の私が思うのは、幸不幸というのは、そのときの出来事では決まらないということです。
では、何で決まるかと言うと、その人がどう考えるかで決まると思うのです。
馬が逃げ出した時も、それを不幸と考えることもできますが、幸いの種になると思えば幸せな出来事です。
「そんなのまだ起こっていない未来がわからないのだから、どうなるかわからないじゃないか?」
そういう考え方もあるでしょう。
でも私は、まだ起こっていないのだから、好きなように考えたら良いと思うのです。
自分が好き勝手に考えるだけですから、何の損もないではありませんか。
それとも不幸だと嘆いたら、何か得することがあるのでしょうか?
何が起こるかわからない。だったら、自分の都合が良いように考えて、幸せな気分で過ごすことを選択する。
そういう習慣を身につければ、不安など消えてしまうと思いますよ。