世田谷の現場で近藤繁さんを悼む会(2月1日) | 国連・憲法問題研究会ブログ

世田谷の現場で近藤繁さんを悼む会(2月1日)

世田谷の現場で近藤繁さんを悼む会(2月1日)


 府中市是政で殺された野宿者「福岡正二さん」の追悼集会を行ったのは、昨年の7月でした。それから7ヶ月。今年の2月1日にまた野宿者の追悼集会を行うなんて、誰が思っていたでしょうか。正月2日世田谷区喜多見3丁目の東名高速道路高架下のフェンスに囲まれた中で寝ていた「近藤繁さん」が、暴行を受け殺されました。
 報道によると被疑者として捕まった人は、昨年6月国立市谷保の石田大橋下の多摩川河川敷にいた野宿者を襲撃した容疑としてずっと行動を見張られていたらしく、この1月2日も車と自転車で警察は行動を監視していた中で15分間見失った時に起きてしまったらしい。その時間は午後5時半ころ。ところが、別の報道では「同庁は当初、2日午後5時半過ぎの犯行とみていたが、…供述から2日午前1時前後に近藤さんを殺害し…」となっており、不明の点が多い中で捜査が行われている。(遺体発見は、110番通報で…という報道もあればこの見失った15分後に発見した…というものもある)被疑者はグループホームで生活している人で、軽度の「知的」障害を持っている。見失った15分について警察は謝罪を行っているが、捜査が冤罪にならないように注目をして行かなければならないと思う。
 世田谷区によると、区内にいる野宿者は80数名うち多摩川河川敷にいる野宿者は43名との調査報告がある。また毎月1回、巡回相談を行っているときく。しかし区側は近藤さんについては把握していなかったという。
 「近藤繁さんを悼む会」集会は北風の吹く中、山谷の仲間・渋谷・池袋の仲間・川崎の仲間など60名が参加して殺された現場で行われた。
 当日、犬を連れ追悼に参加された近所の方からは「近藤さんは、半年前から缶を集めてここの場所で生活をしていた。犬好きの人で散歩をして出会うと、よく声をかけてくれた。近くにもう一人野宿の方が暮らしていた。」という話しが聞けた。
 社会から排除され、隅に追いやられたものどうしが本当の意味で出会うことが出来ない。それどころか対決しあうような形でしか、残念ながら関係を持てない、歪んだ今日の社会構造は変えなければならない。誰もが生きていく権利があるはずなのに、国も社会も責任を負おうとはしない。野宿者は公共空間からどんどん追い出され、孤立化され分散化されている。
 今回の事件を受け「悼む会」として区に対し申し入れを準備していると聞く。また多摩川、東名高速、中央高速にそって多くの野宿者が生活しているはずだし、その仲間と出会っていくことが大きな課題として残されています。 世田谷――府中をつらぬく野宿者への支援活動に、関心のある方はご連絡をしてくだされば幸いです。

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近藤繁さん。あなたは正月早々1月2日に殺された。報道によれば、死因は頭蓋骨骨折などによる失血死という。頭に十数カ所の傷があり後頭部が陥没していた。うつぶせ状態で発見され着衣に乱れはなかった。橋げたの横にダンボールを敷いて寝袋に入っていたそうだ。司法解剖では両手には抵抗したような傷があったという。この両手の傷は、死ぬまいと、生きようとした証である。寝込みを襲われて、凍てつく寒さをしのぐ寝袋の中から腕を出し最後まで抵抗しようとしたのだろう。から、ほぼ真上から振り下ろされる鈍器に、地面10cm対峙したのだろう。なんという壮絶な最期か。

この殺害現場には、そろえた靴やポリ袋、ナップサックもあったそうだ。ここで野宿していたのだ。1.5mほどの高いフェンスで囲われている。簡単には入れない。だから近くに野宿者はいない。昨年から、道路の高架下で連続して高齢の野宿者が襲われ殺されてきた。今回も、襲撃の途中、誰も気づかず、誰も近くを通らなかったかもしれない。なぜ高架下に野宿者はいるのか――。
 この数年、野宿者の寝場所は大きく変わってきた。河川敷や都市公園など地域住民の目につく場所では撤去が繰り返されている。商店街の天井は冬季に開けられる。ベンチの屋根は取り払われる。こうして、わずかな場所を奪われた野宿者が姿を見せるのは、より深夜の時間帯になり、寝ないで夜通しさまよう人も多くなった。孤立した寝場所か、深夜もさまようか・・・非常に限られた選択肢から選ばざるを得ないのだ。
高架下に野宿する理由はいくつかある。1)雨をしのげる。2)他の野宿者があまりおらず、いても距離が離れる。3)地域住民が近づいてこない。しかし高架下の多くは、排気ガスによって空気が悪い場所であり、孤立している場所である。周囲の野宿者からも地域住民からも孤立している場所に、高齢の野宿者がたどり着き、定住する間もなく殺害されたのだ。

 近藤繁さん。あなたの人生が見えない。公表されているのは名前と年齢71歳だけだ。ご飯はどこで手に入れていたの?期限切れの弁当?アルミ缶集め?誰かにもらっていたの? どの町で生まれたの。どんな仕事をしてきたの。最後に暮らした町はどこ?この近く? いつ頃まで家にいたの。路上にでてきて10年?それとも間もない? 何に追われたの。借金の取り立て?家族との軋轢?・・・。

 襲撃・殺害に怒りと悲しみのない者の言葉が、他者に届くはずがない。私たちは怒りを隠さない。悲しみを吐露する。排除や襲撃は、人間を大切にしない社会と、生命をすり減らす冬の時代の象徴だ。世間から価値なき者として扱われ、居場所なく空間的に追われ、心理状態も含め若者や子どもと野宿者とが「近い」存在になっている。そしてささいなことで「やりあう関係」になってしまうことも、継続しエスカレートした襲撃が人を「死」に至らしめることもある。破壊されてきた人間相互の関係の復権を。その先に、若者、子ども、教育・福祉関係者、大人・・・1人1人が野宿者問題と向き合う時空が拓かれる。襲撃に対峙することは、ストレスの充満する子や若者と一緒にする“世直し”である。

記憶は武器である。そして記憶は執念となる。近藤繁さんを殺した状況よ、私たちはこのことを風化させない。胸に刻みつける。近藤繁さん、あなたを追悼するこの日から、私たちに何ができるかを考え、何かを生みだしたい。正解はない。ここに集まったすべての人が、地域や職場で悩みながら話すこと。その試行錯誤の時空を共有すること。うまく説明できなくてもいい、言葉にならなくてもいい、しかし決して目の前の「事件」から決して逃げない姿は、若者や子たちに何かを伝えるにちがいない。1人の生きてきた歴史と、痛ましく壮絶な死の記憶を、世の中を人間の体温の伝わる社会に変えてゆく一歩としたい。

          
          2009年2月1日
          「近藤繁さんを悼む会」実行委員会

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