こんにちわ

今日は午前中、学校で今季最後の講義を受け持ちました。

 

ベートーヴェンソナタはアドヴァンスなんですがどうしてアドヴァンスの分野に入るのか?

ご存知でしょうか?

 

技術的にはそう飛び抜けて難曲というわけではないですが、

 

音大でもテストでもベートーヴェンソナタはアドヴァンスなんです。

 

私も若い頃不思議でした。

 

 

がしかし、

 

バリバリ弾く子でもベートーヴェンを弾かせると上手くないんですね、どうしてなのか?

 

それは若い人にはまだベートーヴェンの苦悩を理解するのは難しいんだと思います。

 

私もつい最近苦悩を少し感じられるようになった気がします。

 

生徒さんにも苦悩Sufferってわかる?って質問すると、

 

意味は理解出来ますが、心で体では感じることが難しいかと思います。

 

 

で、今日はベートーヴェンの苦悩について色々参考にしながら講義させていただきました。

 

 

難聴などの聴覚障害は、音楽に関わる上で致命的であるといわれています。

後天的な難聴であれば耳が聞こえにくくなる前に記憶した音や、音という概念の存在を理解できますが、

先天的な聴覚障害の場合、「音」という概念の無い世界で生きているのと同じことになるからです。

スティービー・ワンダーやレイ・チャールズのように視覚障害を持つミュージシャンに対して、聴覚障害を持つミュージシャンはごく僅かなのです。

その僅かな聴覚障害のミュージシャンの一人がベートーベンだったのです。

のという説です。

 

当時のヨーロッパは酢酸鉛(さくさんなまり)を甘味料として食品添加物に使っていたと言われています。

鉛中毒も難聴や神経系への影響があるだけでなく、ベートーベンが悩まされていた腹痛や下痢を伴うため有力な仮説とされています。

難聴という音楽家生命最大のピンチに直面したベートーベンは、自分の命を絶つことも考えていました。

後世の研究では、同時期にピアノソナタ「月光」を贈った一回り年下の貴族令嬢、

ジュリエッタ・グイチャルディとの身分違いの恋に破れていたようです。

難聴と失恋の痛手がベートーベンを追い詰めていたのです。

 

ベートーベンは1802年10月、療養先のハイリゲンシュタットの邸宅で遺書を記します。

 

遺書を書いたとき、ベートーベンが考えていたのは「この世からの離別」ではなく

「今までの自分との決別」だったようです。

遺書というには全然絶望している様子が感じられない文章で、

「ハイリゲンシュタットの決意表明書」と言ったほうが適切な内容なのです。

ベートーベンは、遺書を書くことで自分の人生を見つめなおし、

これからをどう生きていくかを考えていたのではないでしょうか。

 

事実、この「ハイリゲンシュタットの遺書」を記してからのベートーベンは、

作曲活動に専念し矢継ぎ早に名曲を発表しています

 

元々、ベートーベンがハイリゲンシュタットにやってきたのは難聴を治療するためです。

ハイリゲンシュタットには温泉が湧いていて、ドイツで発達した温泉療法にはもってこいの土地だったのです。

しかし、ベートーベンの難聴には温泉療養の効果はありませんでした。

では、どのようにしてベートーベンは難聴というハンディキャップを克服して音楽活動に専念していったのでしょうか?

 

ベートーベンは、特製のピアノを発注し難聴の克服に乗り出しています。

ピアノは、張り詰めた弦をハンマーで叩いて音を出す弦楽器の一種なので、

弦を叩いた振動が伝わってくるようにすれば難聴のベートーベンでも音の強弱を把握することができます。

一説によれば口にくわえたタクトをピアノに接触させて、歯を通して振動を感じたとも言われています。

ベートーベンは今で言う骨伝導を利用して音を感じていたのです。

ベートーベンは、感じ取った音と耳が聴こえていた時期の音の記憶と音楽知識で作曲を続けたのです。

作曲以外のときは、筆談と聴診器のような補聴器の原型で会話を行っていたようです

 

ベートーベンは、甥のカールに正式な学校教育を受けさせゆくゆくは自分の跡を継いでもらいと考えていたようです。

しかし、カール本人にしてみれば、伯父の愛情はいささか重いものであったようです。

父カスパールが病没したのはカールが9歳の頃のことで、まだまだ親に甘えたい盛りの時期です。

そんな時期に今までと違う生活環境を伯父に突然強要されたのですから、たまったものではありません。

ベートーベンによって通わされることになった学校をたびたび脱走しては、

母ヨハンナの元に帰っていたというエピソードが残されています。

学校生活だけならまだしも、ベートーベンの弟子だったツェルニーからのピアノレッスンも受けさせられていたので、

カールにとって心休まる時はほとんど無かったのです。

 

伯父であるベートーベンの偏愛によって、生活や願望を抑圧されたカールは徐々に精神の均衡を失っていきます。

大学中退やベートーベンによる監視と言った生活の崩れの中で、カールは絶望の淵に立たされていたのです。

1826年、腕時計を質草にしてピストルを手に入れたカールは、バーデンで自害を試みたのです。

幸い一命を取り留めたものの、カールは目的を遂げたと言えます。

 

この事件を知ったベートーベンはひどく狼狽し健康を崩してしまうのです。

ベートーベンは、この事件以降カールの進路に対して口出ししないようになったのでした。

 

 

悲愴を弾いてみました。長いので2楽章だけ。

 

 

 いきなり弾いてあまりにお粗末な演奏でしたので消させていただきます。

聴いてくださった方ありがとうございました。