速水馨のブログ

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仏教をテーマ、学んだこと、聞き得たこと、実践してみたことを少しずつ綴ります。

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▲本堂再建の落慶法要記念写真(1983)

 

 

 昭和42年(1967)11月10日午後10時30分ごろ、念慶寺本堂から火の手があがった。本堂をはじめ庫裡に至るまで全焼し、その火柱は高時川の堤防からも見えるほどの高さにまで登ったと云われている。駆けつけた念慶寺の世話方をはじめ多くの人々が夜を徹してその最後を見届けられた。

 翌年3月15日には、結核を患い病弱であった第十三代住職の速水俊亮が家族や世話方に見守られながら眠るが如く、命を終えていった。

 念慶寺の本堂消失後、ただちに仮御堂を建設することが決せられた。この施工を引き受けられた大工は、年内に完成することを依頼された。内陣箇所には檜材を用いつつ、骨格を鉄筋で仕上げる仮御堂は約束通り昭和42年の12月31日に完成された。以後、報恩講をはじめ諸行事や会議はすべてここで行われていった。

 問題は仮御堂に安置する御本尊をどうするかであった。多くの場合、絵像本尊である掛軸を奉掛するが、念慶寺仮御堂には、隣接する柴辻本家の木仏である阿弥陀如来像をお迎えすることになった。

 当時の柴辻家の事情を知る田村和子さんは、本家の御本尊を仮御堂にご移徙(入仏)する時、木仏を取り出した際に役割を果たし遂げたように、これまで安置されていたお内仏(仏壇)が崩れ落ちたと話されていた。柴辻本家のお内仏は、これまでたびたび触れてきたように、現存するお内仏の中で最古のものであったが、明治期に旧びわ町の椙本家に譲り渡し、その後新たに新調されたものであった。御本尊を安置するお内仏は変わったとしても、柴辻家の木仏本尊はそのまま安置されたものであろう。その木仏本尊は現在の念慶寺本尊として本堂に安置されている。

 本堂再建までには幾度となく寄り合いが重ねられた。様々な意見が飛び交う中で「寺のことは多数決で決めることではない」という一言によって再建が定まったという。

 藤本吉左衛門さんを建設委員長として門徒総動員で募財依頼を行い、昭和54年(1979)、念慶寺本堂再建に向けてカラキダチ(空木建)が行われる。男女を問わず土を運び、柱を立てていく姿が映像に収められている。

 そして昭和58年(1983)、本堂の落慶法要が勤められた。

(完)