面接授業「映画と精神分析」とは直接関係のない話題でながながひっぱってしまいましたが滝汗、このタイトルではこれが最後です。またしても、映画と本の話題です。 

2本目に見た映画は湊かなえ原作『贖罪』の中のエピソードの一つでした。
湊かなえ、そう来たか、が第一印象でした。 

 

映画化もされた『告白』は本で読みましたが、
さすが「イヤミスの女王」、うんざりさせられる内容で、私的にはもうこの人の作品は読まないな、でした。

私、別に最後はハッピーエンドじゃなくちゃいやだとか、
葵の印籠登場で大団円じゃなくちゃいやだとか、
意地悪な人、嫌なヤツが出てくる話がいやだとか、
そんなおぼこではありません。

この作家と、あと一人吉田修一は今後、読まない作家の2人です。
(余談ですが、吉田修一は山本周五郎賞受賞作品の「パレード」を読んで嫌になりました。
何故に、これが山本周五郎賞!と、ちゃぶ台をひっくり返したいほど憤りましたし、
フィクションとは言え、作中のあるエピソードにこの人、心底女性が嫌いなのかもしれない、と思いました。)


さて、『贖罪』、題名からして、精神分析を語る上では、格好の題材。

小学生の子どもを殺された主人公・麻子(小泉今日子)の不幸は筆舌に尽くしがたいでしょう。
犯人と遭遇し、同級生が殺されることを防ぐことができなかった子どもたち(小池栄子、他)も、生涯癒えることがない悲しみ・傷を抱えることでしょう。

麻子が、殺された娘エミリの同級生たち(小池栄子、他)に、
「あなたたちを絶対に許さない。必ず犯人を見つけなさい。それができないのなら、わたしが納得できる償いをしなさい。」
と言い放つのにはウンザリさせられました。

そりゃあ、麻子さん、犯人が捕まっていないから誰かを悪者にしないと生きていけないでしょう。
だからと言って、事件に遭遇させられた子どもたちをより傷つける資格なんてあなた無いでしょう。
真紀(小池栄子)が

「私は幸せになる資格はありません」

と言うに及んで、
「そもそも、生きていくこと、幸せになることに資格いるのか?」と私的にツッコミどころ満載で、
湊かなえらしいセリフだな、と思いました。

作中のみんな、降りかかった災難にがんじがらめになり、
災難をなんとか自分自身で消化というか昇華しようとせず、他人にその解答を求める姿に、
フィクションとはいえ、「なんだかなぁ、こういう設定にしないと物語を紡ぐめないのなら、そんな物語はいらんわ」、と思ってしまうのです。 

取り上げられた題材の設定そのものに異を唱えている段階で、
私のこの講義への姿勢としては全く正しくないのは百も承知ですが、
『贖罪』という物語そのものの感想として、お読み頂けましたら幸いです。

この記事を書くにあたり、『贖罪』についてググってこの物語の結末を知りましたが、
私的に「物語」のもつ何でもありさ加減に、感服させられました。

 

 

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