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古代史の再検討(11ー3)・・・絶対年代の復元

44 『日本書紀』が語る季節
 ここまで来れば、本論もいつ終了してもよい段階に入った。「二倍年暦」が行われた時期も、その具体的な形も明らかになった。数々の検証も行ってきた。これ以上論証を続けるのは蛇足,とのお叱りを被っても致し方ない地点に到達しつつあると考えてよかろう。
 だが、終了に入る前に、最後に、ガラリと視点を変えて、『日本書紀』が語る季節について考察してみたい。
 『日本書紀』の記載に、はっきり季節を伺わせるに足るカ所は非常に少ない。和歌や物語などとは異なるから当然といえば当然だ。しかし皆無ではない。
 「二倍年暦」表記が行われているのは、『古事記』である。天皇の崩御年月日にそれがあらわれている。その崩御年月日は三十代敏達天皇以降連続して記載されている。敏達天皇の四代前の二十六代継体天皇までは、比較的『日本書紀』記載の各天皇の在位年数を半分にした数値が『古事記』記載の崩御年によく合致している。
 第18表もその観点から作成してある。
 ここでは、ターゲットを広めにとり、二十六代継体天皇まで遡って『日本書紀』の記載を調べてみることにしよう。
 誰の目にも季節がはっきりうかがえるのは冬季である。雪、霜、氷柱(ツララ)、霙(ミゾレ)、厳寒といった現象に照準を当てて二十六代継体天皇から四十一代持統天皇までの記事を全部調べてみればよい。このような文字でも、人名に使用されたり、雪(そそぐ)といった風に漢字固有の意味で使用されたりしている例がある。それらの例は除いて考えればよい。
 すべて調べた所、拾い漏れがない限り、全部で8カ所見つかった。非常に少ないと考えるべきか、あるいはまあまあの数の事例と考えるべきかはさておいて、そのすべてを紹介すると以下のとおりである。

① 推古34年(書紀の紀年で626年:第18表に基づく実年で659年後半。以下同) 
 〇三月、寒以霜降。
 〇六月、雪也。是歳自三月至七月、霖雨。

② 推古36年(628年:実660年後半)
 ○夏四月壬午朔辛卯、雹零大如桃子。壬辰、  雹零大如李子。

③ 皇極2年(643年:実668年前半)
 ○二月辛巳朔庚子、桃花始見。乙巳、雹傷草  木花葉。是月風雷雨氷。行冬令。
 ○三月辛亥朔乙亥、霜傷草木花葉。是月、風  雷雨氷。行冬令。
 ○夏四月庚辰朔丙戌、大風而雨。丁亥、風起  天寒。己亥、西風而雹。天寒。人着綿袍三  領。甲辰、近江国言雹下。其大徑一寸。

④ 皇極3年(644年:実668年後半)
 ○三月、・・・倭国言、頃者菟田郡人押坂直、  将一童子欣遊雪上登菟田山、便看紫菌挺雪  而生高六寸余。

⑤ 天武元年(672年:実682年後半)
 ○六月辛酉朔乙酉、以皇后疲之、暫留輿而息  然夜曀欲雨。不得淹息而進行。於是、寒之  雷雨已甚。従駕者衣裳湿、以不堪寒。乃到  三重郡家、焚屋一間而令熅寒者。

⑥ 天武6年(677年:実685年前半)  ○十二月己丑朔、雪不告朔。

⑦ 天武11年(682年:実687年後半) ○秋七月壬辰朔戊午、是日、信濃国、吉備国並言、霜降亦大風、五穀不登。

⑧ 朱鳥元年(686年:実689年後半)
 三月辛丑朔庚戌、雪之。

 これでお分かりのように、冬季を伺う事例は
三十三代天皇の推古紀になって初めてあらわれる。二十六代継体天皇から三十二代崇峻天皇に至る記事には全く登場しない。
 それはさておき、以上の8例すべてについて検討してみよう。
 先ず第一例。推古34年の条。
「3月に霜が降りて寒かった。6月には雪が降った」とある。
 これを普通暦のこととすると、実に奇妙である。3月は現在なら4月ないし5月。春の最盛期。「霜が降りて寒かった」という時期ではない。もっと奇妙なのは6月。現在なら7月ないし8月。真夏だ。真夏の大和は暑い。まちがっても雪は降るまい。
 これを第18表に従った後半年とすれば、ぴったりである。第19表等で確認できるように、「二倍年暦」ごよみでは3月は普通暦の9月前半に当たる。9月は現在なら10月ないし11月。地球温暖化など進行していない当時なら、「霜が降りて寒かった」という表現はぴったりである。そして6月。普通暦の10月後半に当たる。現在なら12月当たり。雪が降ってなんら不思議はない。
 続いて第二例。推古36年の条。
「夏4月に、桃やスモモのような大きさの雹零(アラレ)が降った」とある。これも4月は現在なら5月ないし6月で、不自然。「二倍年暦」ごよみの後半年の4月なら秋冬期でぴったりだ。
 次は第三例。皇極2年の条。
 「2月と3月にアラレが降って草花を傷め、ミゾレまじりの風が激しく吹いた。冬の行事が行われた」とある。2月と3月は現在なら春の真っ最中。「冬の行事が行われた」という表現がやや不自然だが、春にアラレやミゾレが降ることも珍しくないだろうから、ここまではよい。
 不自然なのは、夏4月のくだり。「4月下旬(己亥(20日)になって、アラレが降り、寒くて人々は綿入れの着物を着ていた」というのである。4月下旬といえば、現在なら6月に入る頃である。不自然である。4月下旬がそのまま現在の太陽暦なら、寒い日がないとはいえないけれど・・・。季節が1,2ヶ月ずれていることは否めない。
 では、「二倍年暦」ごよみならどうか。この年は前半年。2月と3月は普通暦でも2月と3月。が、4月は普通暦では3月のままである。
3月と4月下旬では一ヶ月余異なる。微妙な違いだが、現在の4月なら「アラレが降り、寒くて人々は綿入れの着物を着ていた」という日があっても不自然とは言えないだろう。
 続いて第四例。皇極3年の条。
「3月に倭国(ヤマトノクニ)の人が申した。菟田郡の押坂という人がある子を連れて、菟田山に登ったところ、雪の中から高さ6寸ほどのキノコが生え出ていたので、喜んだ」とある。
 現在の季節でいうと、3月は、普通暦なら4月から5月、「二倍年暦」(後半年)なら10月頃。微妙だが、両暦とも雪はあり得る。
 次は第五例。天武元年の条。
これは、天武天皇が六月辛酉朔壬午(22日)に挙兵した記事に続く記載である。その三日後の乙酉(25日)、天武一行は鈴鹿関近辺にさしかかるが、雨が激しく、極寒に耐えられず、家を一軒燃やして暖を取った、という趣旨の記事である。
 この記事はもう解説するまでもなかろう。6月は現在なら真夏の時期だから、一軒燃やして暖を取らなければならないことなどあり得ない。「二倍年暦」後半年だからこそ理解できる記事なのである。
 続いて第六例。天武6年の条。
「12月1日は雪で、ついたちであることの伝令がおこなわれなかった」とある。
 これは、普通暦はもとより、「二倍年暦」の前半年の12月(普通暦の1月)でも、雪が降るのは当然で理解できる。
 さらに続いて第七例。天武11年の条。
「7月戊午(27日)に信州(長野)や吉備(岡山)の国では、霜が降りて大雨だった」というのである。7月はまだ残暑の残る8月から9月にかけての時期。「二倍年暦」後半年の7月と考えないと理解困難だ。
そして、最後の第八例。朱鳥元年の条。
「3月庚戌(10日)に雪が降った」とある。 これは、第一例と同じく3月。現在なら春の最盛期。「二倍年暦」後半年の3月でないと理解し難い。

 以上、ややくどかったかも知れないが、全八例に渡って記したのはほかでもない。ほぼ、すべての例が 「二倍年暦」ごよみに照らせば、極めて自然な季節現象であることを分かっていただきたいからである。少なくとも、普通暦では著しく不自然な現象であることは否めないのである。
ただし、厳密にいうと、推古天皇の崩御年月日の扱い方を思い起こせば、百パーセント『日本書紀』の記載が正しい、とは言い切れない。月名と日付干支は原記録を尊重しているようであるが、原記録の当該月に日付干支が登場しない場合は、年をずらした可能性があるからである。もっとも、月さえ尊重されていれば、影響はないが・・・。
 推古天皇の崩御月のほかに、前回(10)論じた壬申の乱でも『日本書紀』は原記録の6月を尊重している。ただ、くどいようだが、月が動かされた形跡がないのか、確認する必要があると思う。
結論。ぎりぎりの厳密さは欠くかも知れないが、『日本書紀』が記す全用例からいって、『日本書紀』の編著者が用いた原記録は、「二倍年暦」ごよみによっていた、と考えざるを得ない。これまでに論じてきた、「二倍年暦」の数々の証拠に加えて、こうした季節面においても「二倍年暦」が確認づけられる、といわざるを得ないのである。
今回、本論の総まとめに入ろうと思ったが、紙数が尽きてしまった。
 最終回は次回に持ち越しとしたい

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